益岡 賢氏ご講演内容のアップロードについて
2003年4月15日  ユーラシア紛争地フォーラム実行委員会

昨年11月16日に実施した「シリーズ21」第2回ミーティングの概要については、すでにお伝えしていますが、益岡 賢氏のご講演の内容の中に、現在、イラクで起こっている深刻な事態と深く関連した内容が多く含まれていることもあって、益岡氏のチェックをいただいたうえで、特にアップロードするものです。
なお、本資料の作成にあたっては、当クラブメンバーの佐々木正仁、山田美奈、余野桃 子の3氏に、絶大なご協力をいただきました。(文責:福井伸彦、)


●益岡 賢氏ご講演
[テーマ]「ならず者国家」とマスメディア報道――チョムスキーの主張を巡って――

[講演者]益岡 賢氏(翻訳家、東京東チモール協会所属)
[日 時]2002年11月16日午後2時より
[場 所]早稲田大学文学部39号館第7会議室

 益岡です。今回は、まずチョムスキーが主張するスタンスに沿って、幾つかのテーマ、 つまり米国と世界情勢を巡るマスメディア報道について、ある程度突っ込んだお話をして、 その上でチョムスキーの主張のポイントについて触れたいと思います。

  1. アメリカ合衆国:The Ultimate Rogue State?(究極のならず者国家か?)

    建国〜第2次世界大戦以前

     まず米国について考える場合、文化的な側面などについて言及するのは、私はあまり好 きではないのですが、やはり、まず第一に「米国は先住民を虐殺して作ってきた国家であ る」という点は、きちんと押さえておかなくてはならないと考えています。先住民の人口 は、チョムスキーは1,000 万人程度と言っていますが、人類学的研究の結果では500 万人 程度というのが妥当な数字のようです。ところが、現在ではこの10分の1程度となってし まったといわれています。

     各所でよく引用される米国の独立宣言にしても、「人は生まれながらにして云々」とい う文言のすぐ後の英国批判の下りには、「インディアン蛮族をけしかけて……」というよ うな文言が登場します。これを見ても最初から米国が標榜してきた「平等」「自由」につ いて、極めて人間の範囲が絞られた形でしか規定されてこなたったことが分かります。  また、米国の建国の志士たちの記録を読んでいて、とても興味深かったのはアレクサン ダー・ハミルトンという人物でした。彼は独立戦争に参加してワシントンの副官を務めた 後、1782年から議員となり、初代財務長官を務めるなど、米国の政治体制を現在のような 形にするのに貢献しました。『エンサイクロペディアブリタニカ』の米国で最初の購入者 の一人でもあります。

     彼は、「人民は巨大な野獣で、問題は民主主義にある」と宣言し、政府の第一の目的は 「裕福な少数者を大衆から保護すること」にあるという点を理解するべきだと、強調して いるのです。そして、基本的に米国の政策を読み解いていくと、この「問題は民主主義に あって、裕福な少数者を大衆から保護する」という観念に戻っていくのです。

    第2次世界大戦後

     それからずっと歴史は下って、第1次世界大戦から第2次世界大戦後にかけての時期に、 世界的な覇権がヨーロッパから米国に移ったと言われています。この米国の覇権を象徴す るような文書の一つに、チョムスキーもよく引用している、ジョージ・ケナンが1948年に 書いた「政策計画研究23」があります。これは米国のスタンスを非常によく表わしている ので、ここに記しておきます。ところでこのジョージ・ケナンは駐ソ大使などを務めた著 名な外交官で、ソ連封じ込め政策の提唱者として知られている人物です。

      我々の人口は世界の6.3 パーセントに過ぎないが、世界の富の約半分を所有してしい  る。……こうした状況では、我々が羨みと憤慨の対象となることは避けられない。今後  我々が本当にしなくてはならないことは、この均衡のとれない位置を維持できるような  国際関係の様式を作り上げることである。そのためには感傷主義と夢想は捨て、あらゆ  る面で、我々の国家的目的に注意を集中しなくてはならない。……人権や生活水準の向  上、民主化といった曖昧で非現実的な目標について語ることをやめなくてはならない。  我々がはっきりと力によって問題に対処しなくてはならない日が来るのはそう遠いこと  ではない。そのときに、理想主義のスローガンに邪魔されなければされないほど好まし  いのだ……  

      最終的な答えは気持ちのいいものではないかも知れないが……各国政府の警察を使っ  て人々に弾圧を加えることを躊躇してはならない。共産主義者は本質的に裏切り者であ  るのだから、警察による弾圧は恥ずべきことではない。……寛大さゆえに共産主義者に  むしばまれるリベラルな政府よりは、強圧的な政府が権力を握っているほうがよい。

     基本的にここに書かれている考え方が、東チモールへの介入にしても、2001年9月11日 のいわゆる「同時多発テロ」をめぐるアメリカの対応にしても、全て同じようなパターン で繰り返されていることを、強調しておきたいと思います。  ラテンアメリカには、第2次世界大戦以前から米国が繰り返し繰り返し介入して、政府 を転覆してきたわけですが、その中で典型的なパターンを示しているのは1964年のブラジ ルのクーデタです。この時はCIAが介入して、穏健な国内改革を進めていたジョアン・ グラール大統領の政権を転覆しました。この時の拷問された被害者である女性の証言を記 しておきます。

      性的なものを含めてあらゆる拷問を受けている間、米国の軍事顧問官は別の部屋から  壁にはめ込まれたガラスを通じてそれを観察していた。そのとき、顧問官に電話があっ  た。妻からで、彼は、電話口に、帰りに幼稚園に娘を迎えに行って一緒に帰ると話して  いた。

     彼女は、何よりも耐え難かったのは、顧問官が妻からの電話に対して極めて陽気に「帰 りに幼稚園に娘を迎えに行って一緒に帰る」と語った、この自分と彼らとのギャップであ ったと言っているわけです。そして、この気持ち悪さのようなものを肌で感じることが、 多分、メディアの報道を読み解く時のスタンスとして、非常に重要なのではないかと、私 は考えています。つまり、軍事顧問官の無意識の対応と同じように、メディアの報道にし ても意識せずに行われる報道の内容によって、そのメディアがどこで批判的なスタンスを 担保できるかが表現されるのだと思うからです。

    J.F.ケネディ

     ところで、私はジョン・ケネディ大統領を取り上げるのがわりに好きです。彼は「平和 的改革を不可能にするものが、暴力革命を不可避にする」と語っていますが、彼自身がこ の発言に該当する行動を取っています。というのは、彼は大統領在任中に、ラテンアメリ カ諸国の軍隊の性格を、外敵と戦うのではなくて、国内の反対者を弾圧する国内治安部隊 に、一斉に変えたのです。これによってラテンアメリカの国々では、民衆の前にまさに彼 の言葉通り「平和的改革を不可能にするもの」として国内治安部隊化した軍隊が立ちはだ かり、この結果、「暴力革命」が各国で頻発したわけです。

     それから、ベトナム戦争はケネディが一気に拡大した戦争です。現在では、米国ではみ んなその事を知らず、しかもベトナム戦争は北ベトナムと南ベトナムの戦争だったと思っ ているようです。ところが戦争の基本構図はというと、そもそも南北の境界は戦時境界線 であって、予定されていた選挙でホーチミンが勝利することが分かりきっていたので、こ れを阻止するために米国が南ベトナムに介入した。そして、これに反対した人たちを米国 と米国に後押しされた軍隊が弾圧したというものです。これは単純化して言えば、アレク サンダー・ハミルトンの、政府の第一の目的は「裕福な少数者を大衆から保護すること」 という言葉を、地でいった行動にほかなりません。

     大統領ついでにニクソンにも触れてみましょう。彼のステージはラテンアメリカのチリ です。民主的な選挙で選ばれたサルバドール・アジェンデ大統領が1973年9月11日、なん と奇しくも「9.11」ですが、CIAが後押ししたクーデタで殺害されます。この時ニク ソン大統領は次のように言いました。

      アジェンデの暗殺を歓迎できないわけではない。確率は10に一つだが、チリを守らな  くてはならない。

     アジェンデが当選した1970年の大統領選挙では、CIAが露骨に介入して反対派の後押 しをしましたが、大差でアジェンデが勝利しました。つまり、アジェンデ大統領はチリの 国民の大多数の支持を受けていたのです。にもかかわらずアジェンデを殺害することによ って、チリをなにから救うのかというと、これもやはりハミルトンが言うところの「裕福 な少数者を大衆から保護する」、すなわち一般民衆からチリを救う、チリにおける米国利 権を救うというお粗末になるわけです。

     このように、全く同じパターンでハミルトンの主張を繰り返している、多くの米国の介 入事例を挙げることができます。この内容についてご興味のある方は、私が翻訳した『ア メリカの国家犯罪全書』(ウィリアム・ブルム著、作品社)をご参照下さい。なお、私の ホームページに、同書から短いいくつかの部分をアップすることにしました。

    国連での行動

     ここで、国連の場に視点を移し、米国の国際的な介入の動きについて見てみたいと思い ます。第2次世界大戦後、1960年代に世界中の旧植民地が一斉に独立し、70年代に続々と 国連に加盟していきます。これから東西の冷戦が終了した1989年までの20年間に、米国を はじめとする常任理事国が国連安全保障理事会で拒否権を発動した回数を見ると、米国が 59回、英国が26回、フランスが11回、ソ連が8回、中国が1回となっていて、圧倒的に米 国の拒否権発動回数が多くなっています。

     この間、国連は国連憲章の理念に従って、国際的な紛争などの解決をめざして多くの決 議を上程したわけですが、米国の拒否権発動回数が圧倒的に多いということは、とりもな おさず、米国にとって都合の悪い決議が、いかに多く上程されたのかを物語っていると思 います。

     そこで、国連の総会決議の動向について、米国の姿勢がよく分かるようないくつかの事 例を紹介しましょう。まず、1979年1月24日の国連総会決議183 号のMですが、これは当 時の南アフリカのアパルトヘイト政権に対する、全ての軍事的、核協力の禁止を求めたも のでした。この採決結果は賛成114 対反対3で、反対国は米国、フランス、英国です。南 アフリカは、アフリカで唯一核武装した国家でしたが、基本的にはフランス系の技術者が 核武装に協力し、大量の米国資金が流れ込んでいました。

     1980年12月12日の第35回国連総会決議154 は、核を保有しない国に対する核兵器不使用 宣言でしたが、賛成110 に対して反対2、反対は米国とアルバニアで、どういうわけか当 時のソ連は賛成に回りました。なぜこれを取り上げるのかというと、現在、大量破壊兵器 を巡って、イラク査察の必要性が米国を筆頭に非常に声高に叫ばれていますが、この米国 が大量破壊兵器に対して、従来どんなスタンスをとってきたのかを示したいからです。

     1981年の国連第36回国連決議96のBは、化学・生物兵器禁止のための交渉を促すもので したが、賛成109 に対して反対は米国の1国だけでした。これも大量破壊兵器に対する米 国の基本的なスタンスを示しています。

     ちょっと趣旨は変わりますが、同総会決議133 号は「教育、労働、保険、適切な栄養、 国家の発達は人権であるという宣言」です。賛成135 に対して反対はやはり米国1国だけ でした。この反対の意味は、クリントン大統領が「キューバは西半球で唯一民主的でない 国」と発言していることなどを考え合わせてみると、キューバは周辺のハイチ、ドミニカ、 コスタリカなどと比べて、教育、労働、保険、適切の栄養などの面では、かなり高いレベ ルにあっても、これらは人権とは無関係なことになるため、勝手にキューバに介入しても かまわないという、米国の考えによるものではないでしょうか。

     1982年にも「化学・生物兵器禁止に関する条約の必要性」という決議がありました。先 の「国連決議96のB」に比べて、さらに意味が強まったものですが、賛成95に対して反対 はやはり米国1国だけ。1983年12月20日の第38回国連総会決議138 のMは、核兵器を保有 する国家に対して、核戦争を予防し軍拡を押さえるための対策について年次報告を義務づ けようとするものでしたが、賛成133 対して反対はやはり米国1国だけでした。

     1984年の第39回国連総会決議第14号は、イラクの核施設に対するイスラエルの爆撃を非 難するものでしたが、賛成106 に対して反対は米国と当事国であるイスラエルの2国でし た。1985年12月13日の第40回国連総会決議148 号は、ナチ、ファシスト、ネオファシスト の活動に対して何らかの対策を講じようというものでしたが、賛成121 に対して反対はや はり米国とイスラエルの2国でした。

     1987年11月12日の第42回国連総会18号決議は、ニカラグァに対する軍事・準軍事組織活 動に関する国際司法裁判所の判決を遵守することを求めたものです。賛成94に対して反対 はやはり米国とイスラエルの2国でした。これは、チョムスキーがアメリカを「ならず者 国家」と呼ぶ時に典型的な事例として指摘しているため、このごろではすっかり有名にな ったものです。

     さらに12月7日には、国際テロリズムを予防する手段、テロリズムの背景にある政治的 経済的要因の調査、テロリズムを定義して、それを民族解放闘争と区別するための会議の 開催を求める決議が採択されましたが、これに反対したのはやはり米国とイスラエルだけ でした。このうえ、90年にはイスラエルとパナマを巡る決議に対して、米国は拒否権をさ らに2回発動しました。

     冷戦終了以降、90年代に入って、国連における議論や決議のトーンがいくらか変化して いるようですが、基本的に国連の場で共有されるテロリズムの概念や対応について、米国 が全く意に介していないというスタンスは、現在も全く変わってはいないと思います。な お、この問題についての国連における米国の対応については、私のホームページでいくつ か紹介しています。ホームページのURLは以下の通りです。

    米国対世界:国連を舞台に

    国連安保理における米国の拒否権行使

    東チモール

     これから、米国が第三世界の国々に対して、どのように関わってきたのかについて、二 つの事例を取り上げてお話していきます。その第一は、私が過去10数年にわたって関わっ てきた東チモールについてです。

     東チモール問題はインドネシアとの関係を抜きにしては語れませんが、まず指摘してお きたいのは、日本のマスメディア報道ばかりでなく外務省でさえも、「東チモールはイン ドネシアから分離独立した」と、平気で虚偽の物言いをしていることです。東チモールは 事実上インドネシアが占領支配していた状態から分離脱却したのであって、「インドネシ アから分離独立した」のではありません。これは、国連の公式文書の中で、法的に併合さ れていたことを意味しない「separatoin(セパレーション)」という表現が使われている ことでも明らかです。

     1965年から話を進めます。インドネシアでは、この年の9月30日から始まった、米国C IAが介入した大規模なクーデタによって、「建国の父」と謳われたスカルノ大統領が打 倒され、当時、国軍のエリート部隊「戦略予備軍」の司令官であったスハルトが、第2代 大統領となって権力を掌握しました。

     スカルノはインドネシア共産党やイスラム系の政治勢力を巧みに操って権力を維持して きましたが、この中にあって米国は軍部に対して膨大な援助をして影響力を強めていまし た。そしてクーデタ後も、5000人ものインドネシア共産党幹部のリストをスハルトに渡し て虐殺の手引きをするなど、密かにスカルノ体制打倒の側面協力をしていたことが、最近 公開されたアメリカ政府の公文書によって明らかになりました。

     当時、米国政府当局は議会で、これまでかなり反米的なスタンスをとっていたスカルノ 政権下でも、米国はインドネシアの軍部に対して援助をしていたことを認め、この援助が 「効果があった」と評価しています。また、当時オーストラリアの首相だったハロルド・ ホルトは、1986年に「50万人から100 万人の共産主義者が殺された今、インドネシアの再 教育ができたと考えてよいと思う」と発言しています。

     当時の米英のメディアの報道では、「ニューヨークタイムス」のジェームス・レストン だったと思いますが、インドネシアの事態について、なんと「A gleam of light in Asia (アジアにおける一筋の光)」と表現していますし、リベラルな論調で知られている「ク リスチャン・サイエンス・モニター」は、スハルトのことを「我々の穏健派」と呼びまし た。また、英国の経済誌「エコノミスト」も「心の底では善意」と言っています。

     このような欧米の「スハルト登場大歓迎」の論調の中で、スイスのダボス(だったと思 うのですが)で、米英をはじめフランス、オーストラリア、オランダ、日本などの主要国 の首脳と各国大企業のトップたち、そのうえスハルト以下インドネシアの将軍たちも一堂 に会して、鉱物、石油、水産、森林など資源ごとのセッションを設けて、利権分割のため の会議を開催しました。その結果、東南アジアで最も天然資源に恵まれ、歴史的にも飢餓 に襲われた記録がほとんどないという非常に裕福な国であったはずのインドネシアは、巨 額の債務を抱えて貧困が深刻化し、凄まじい人権侵害が日常的に発生する悲惨な国になっ てしまったのです。

     国内の利権を食いつくしたスハルト政権は、さらに新たな利権を求めて、1975年12月7 日に東チモール侵略を開始しました。東チモールはポルトガルの植民地でしたが、1974年 に本国ポルトガルで無血クーデタ(カーネーション革命)によってファシスト政権が打倒 されました。それにともなってポルトガルの旧植民地は独立プロセスが進むことになり、 この中で東チモールに生じた権力の空白状態につけ込んで、インドネシアが侵略したわけ です。

     この直前の12月5日に、当時の米国のフォード大統領とキッシンジャー国務長官が、そ ろってインドネシアを訪れスハルトと会談しています。この時、東チモール全面攻撃のゴ ーサインが出されました。この結果、1975年から99年までに、東チモールの人口60万人の うち20万人が、直接あるいは強制収容キャンプなどで殺されたり生命を失っています。  実は1978年まではインドネシア軍は、東チモールの首都ディリ周辺を占領しただけで劣 勢でした。ところが、78年以降91年までに、米国がブロンコという戦闘ヘリを、大量にイ ンドネシアに売却しました。このインドネシア軍の戦力増強によって占領地域が大幅に拡 大しました。この後は、英国がホーク・ヘリを大量にインドネシアに売却して侵略に加担 してきました。

     99年までに約20万人の東チモール人が、米英などから大量の武器援助を受けたインドネ シア軍によって殺害されたわけですが、このうち、主な虐殺事件は次の通りです。ラクル タの虐殺(81年9月、死者約800 人) 、クララスの虐殺(84年、死者約300 人) 、サンタ クルスの虐殺(91年11月12日、死者273 人、行方不明者255 人) 。このほかインドネシア 側は、発癌性の危険から使用が禁止された米国製の薬品を、世界銀行の人口抑制プログラ ムの一環として東チモールに導入し、高校の女生徒たちにビタミン剤と称して強制的に注 射するなど、東チモールの人口を減らすために、様々な非人道的な手段を駆使しました。  さらに、国連による住民投票実施の準備が進行していた1999年になっても、米国の国務 省の意に反して国防総省サイドのデニス・ブレア海軍大将が、インドネシア国軍のウィラ ント将軍に対して支援継続を約束しているのですから、全く驚きます。このような苦難を 乗り越えて99年8月30日に、東チモール独立の是非を問う住民投票が実施され、独立派が 78.5%を獲得して圧勝したことは、ご存じのとおりです。

     それではインドネシアの現状はどうかというと、10月12日夜にバリ島で外国人観光客で 賑わっていたディスコ、サリ・クラブで爆破事件が発生し、オーストラリア人など187 人 が死亡し、300 人以上が重軽傷を負いました。この事件でもよくお分かりのように、政情 は非常に不安定で、国軍による多くの殺害事件や人権侵害事件などが発生しています。特 に顕著なのはアチェと西パプアです。アチェは豊富な石油資源があることから、米国のエ クソン・モービルが進出しています。また西パプアは金、銅が豊富なことから、フリーポ ート・マクモランやブリティッシュペトロリアム(BP)などが進出しています。

     これらの企業はインドネシア軍を傭兵として使っているので、所有地の中に軍の拷問施 設があったりします。東チモールは独立し、98年にスハルトの32年間にわたる独裁支配は 終わりましたが、国家の体質は従来と変わってはいません。例えばバリ島の事件について も、私のところにはインドネシアの専門家筋などから情報が入ってきますが、それによる と、国軍内の有力な派閥との関係が取り沙汰されていますし、使われたC−4(シーフォ ー)と呼ばれる爆弾にしても、爆薬の化学的成分などを分析すると、軍までたどりつくこ とができるという話です。

     また、9.11事件以降、米国、オーストラリアは、「対テロ戦争」の一環としてインドネ シアとの軍事的な関係を強化しようとしています。その時にバリ島のような事件が起これ ば、「やはり軍事関係の強化は必要だ」ということになって、軍は得をすることになりま す。ですから、非常に戦略的に陰謀を巡らした可能性も捨てきれないようです。  バリ島の爆破事件について、英字紙「ジャパンタイムズ」は「インドネシア最大のテロ リズム」と報じています(10月18日付け) 。ところで、米軍のマニュアルでは「テロリズ ム」の定義は以下のようになっています。

      「脅迫や強制、恐怖を植え付けることにより……政治的、宗教的あるいはイデオロギー的な性格の目的を達成するために、計算して暴力あるいは暴力による威嚇を用いること」
       (US Army Operational Concept for Terrorism Counteractoin.TRADOC Pamphlet No.525-37.1984)

     インドネシア実効支配下の東チモールでは同国軍の手によって、上記の「テロリズムの 定義」に見事に当てはまるような虐殺行為が、繰り返し引き起こされてきました。そして 先にお話した3回の虐殺行為の死者数は、約800 人(ラクルタの虐殺)、約300 人(クラ ラスの虐殺)、273 人(サンタクルスの虐殺)となっていて、死者数だけを比べても、い ずれもバリ島の爆破事件を上回っています。つまり、インドネシアではバリ島爆破事件の 以前から、さらに大規模なテロリズムが米、英、オーストラリアなどの軍事援助のもとに、 インドネシア国軍によって繰り返されていたことになります。私たちはこの事実を決して 忘れてはならないと思います。

    イラク

     イラクの問題を考える場合、イラクの宗教と人口構成が非常に重要だと思います。イス ラム教国とはいっても、イランと同じシーア派が南部地域を中心に60%、そして北部には クルド人が23%住んでいて、サダム・フセインが属するスンニ派イスラム教徒は少数派で す。

     イラクにおいて独裁体制を確立しているサダム・フセインは1960年以降米国CIAの後 押しを受けて登場した人物で、レーガン政権時の80年代に独裁権力を手中にしました。88 年にはクルド人の居住地域のハラブジャという町で、毒ガスが使って6000人ものクルド人 を虐殺しました。つまり、彼は現在問題となっている大量破壊兵器を実際に使ってきたし、 使う意思のある人間であることは確かです。

     そのフセインが90年にクウェートを侵略し、湾岸戦争となるわけですが、このクウェー トという国は、イギリスが湾岸地域の石油利権を保持するために、委任統治地域をイラク とクウェートに分割したことによって生まれたもので、これによってイラクは海への出口 が無くなったという背景もあるのです。

     この湾岸戦争に関して、米国サイドのコメントはどのようなものだったのでしょうか。 まず、当時第41代大統領だった父ブッシュですが、「我々はイラクの破壊を求めているの ではない。また、指導者の決定の政策のために、イラクの人々を罰しようと求めてもいな い。」つまり、敵はサダム・フセインであって、イラクの民衆ではないと言っています。 一方で、当時の国連代表であったマドレーヌ・オルブライトは湾岸戦争の5年後の1996 年に、湾岸戦争以後約5年間に、経済封鎖の結果50万人もの子どもが死亡したことについ て、ちょっとおかしな質問ですが、「これは代価としてどうか?」という記者の質問に対 して、「代価は支払うに値していると信じている。」と答えています。また、湾岸戦争時 にイラク空爆を指揮した米国空軍のウィリアム・ルーニー准将は、かなり率直に「奴らは、 我々が奴らの国を所有していると知っている。……我々が、奴らの暮らしと話を指示する。 今、アメリカが偉大なところはそこだ。良いことだ。特に、我々に必要な石油があそこに はたくさんあるのだから……」と語っているのです。

     ところで、国連データによると、これまでに約50万人のイラク市民が、経済封鎖によっ て死亡しています。こういう事態の中で国連のイラクにおける人道問題担当官のデニス・ ハリデーと、その後継者のハンス・フォン・スポネック、さらに世界食糧機構のイラク担 当、ジュッタ・ブーガードは、いずれも抗議の辞任をしています。

     当時、戦場となったイラクのクウェート近くのバスラという町周辺では、砲撃に使われ た劣化ウラン弾が原因といわれるガンが多発しています。この影響はイラクとクウェート の人たちだけでなく、多数の米軍の兵士や、戦後処理に参加したダグ・ロック博士という 原子力関係の英国の専門家も、ガンに冒されているのです。

     それから現在までの経緯について、簡単にまとめてお話します。まず、1990年8月に国 連安保理決議661 号が採択されました。これは、「クウェートからイラク軍を撤退させる ために、経済封鎖をする」という内容でした。イラク軍は91年2月に撤退しました。とこ ろが、同年4月に有名な国連決議687 号が採択されました。これは「イラクの大量破壊兵 器を無害化するために、経済封鎖を行う」というものでした。

     この決議を受けて登場したのが、国連大量破壊兵器査察団(UNSCOM)です。ここ で大量破壊兵器と言われているのは、化学兵器、生物兵器、長距離弾道ミサイルそして核 兵器で、核兵器については国際原子力機関(IAEA)が査察し、それ以外についてはU NSCOMが査察することになりました。査察の解除の条件は、イラクが査察に協力して 大量破壊兵器無害化に積極的な成果を出したという報告書を、UNSCOMが国連安全保 障理事会に提出することとなっていました。以降、イラクでは経済封鎖の下で延々と査察 が続けられました。

     ところが、98年10月30日に、UNSCOMがイラクから撤退します。なぜかというと、 この段階で、国連ではアナン事務総長の提案で、それまでイラク側にあった立証責任をU NSCOMに移すことが協議されたのですが、議長国だった英国がイラクに対して、経済 封鎖解除の条件を示さず、「責任はイラクにある」という虚偽の内容を通達したことにイ ラクが反発し、UNSCOMへの協力停止を宣言したためです。その後イラクは協力を再 開し、UNSCOMは査察業務に復帰しました。

     それから12月14日になって、UNSCOMの団長を務めていたオーストラリア人のリチ ャード・バトラーという人物が、報告書を提出しました。内容はイラク国内の300 個所を 調査した結果、そのうち5個所ぐらいでイラクが非協力的だったというものでした。つま り、概ねイラクは協力的だったのです。それにもかかわらずバトラーは、「イラクは安保 理決議687 号を遵守した行動はとっていない」というサマリーも提出したのです。

     これをきっかけに、米英は一方的にイラクを爆撃したために査察は中断し、UNSCO Mは立ち消えになってしまいました。この事態に対してマスメディアは、「イラクがUN SCOMを蹴り出した」というような表現で、査察中断の責任は一方的にイラクにあるよ うな報道を繰り返しました。

     ところが、その背後を細かく検証してみると、当時、米国の国際安全保障アドバイザー であったサンディ・バーガーという人物が、12月11日に査察団長のリチャード・バトラー を呼びつけているのです。ということは、バーガーがバトラーに自分たちに都合のいいよ うなサマリーを書かせたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

     このような流れを見てくると、米国の海外攻撃や独裁政権支援、そしてSchool of the Americas(Western Hemisphere Institute)などを通じた拷問や殺害訓練は、建国以来の米 国政体に合目的的に従っているものであると思われます。チョムスキーとの共著もあるエ ドワード・ハーマンは、彼の著書The Real Terror Network の中で、米国の政府支援と政 府による拷問との間には、強い正の相関があることを示しています。

     そうはいっても実際には、@米国政府の目的←→米国企業投資環境の「改善」、あるい はA米国企業投資環境の「改善」←→警察・軍による弾圧――というような、間接的な関 係でしょう。これは、米国企業投資環境の改善という目的のもとでの、(少なくとも短期 的には)極めて合理的な意思決定であり、謀略や陰謀といったものとは全く関係ありませ ん。

     ただし、個別の事件を巡る政府と議会、政府機関でも国務省と国防総省等々で、(イス ラエル支援以外では)大きく方向性が異なることもあり、市民パワーなどの建設的介入の 機会はそうした点にあります。東チモール問題については、移民団体による議会への働き かけが、実際に大きく作用しました。

  2. マスメディア報道

    イラク:単純な戦略(嘘と省略)

     これから、イラクと東チモールに対するマスメディア報道について、お話します。まず イラクについては、単純な嘘が一番目につくと思います。非常に単純な嘘と、省略による 嘘です。マスメディア報道の事例として、日経新聞(2002年9月15日付)の記事を取り上 げます。

      亡命学者「イラクは3カ月で核兵器製造可能」

      【ロンドン16日共同】16日付の英紙タイムズは、亡命イラク人科学者の話として、イ ラクは盗んだドイツの機器とブラジルから密輸したウランを使って、3カ月以内に核兵 器を製造する能力を持っていると1面トップで報じた。  

      この科学者はイラクの核開発計画に参画したキドヒル・ハムザ氏で、1994年に首都バ グダッドを離れ、米国に亡命した。ハムザ氏は同紙に対し、イラクがまだ製造を終えて いないとしても、今後数カ月以内に「核兵器を3個」製造する能力があるはずだと語っ た。  

      同紙によると、ハムザ氏はまた、国連の大量破壊兵器査察団が仮に自由にイラク国内 を査察することを許されても、核関連施設が地下に隠されていたり、外見がごく普通に しか見えない建物の中にあるので、核兵器製造現場を見つけることは極めて困難だろう と述べた。  

      英国の国際戦略問題研究所(IISS)がこのほど、イラクは核分裂物質や関連機器 の入手に手間取っているとの趣旨の発表をしたことについて、ハムザ氏は、核分裂物質 は既にイラク国内にあり、現在兵器として使用できるレベルに処理されつつあると強調 した。さらに遠心分離方式を採用しているので、他の方法より短時間に爆弾を製造する ことができるだろうと述べた。

     この記事の中にはいくつか嘘があります。まず、「核関連施設が地下に隠されている」 という指摘ですが、放射線探知機を使えば地下に隠したものでもかなり感知することがで きると、査察団サイドでは言っている事実があります。

     もう一つは、ハムザ氏自身についてです。彼は「核兵器開発のトップだった」と自称し ていますが、実は中間管理職にすぎなかったのです。しかも94年に亡命したのに、なぜこ の時点まで発言が表に出なかったのかというと、発言が信用できないということでCIA も相手にしなかったからなのです。

     また、IAEAの査察団のメンバーの一人で、彼の先生でだったデービッド・オルブラ イトという原子力の専門家がいるのですが、彼は「キドヒル・ハムザは、自分が知ってい ることと亡命してから読んだこととを混同している」と指摘しています。つまり彼はどう も食わせ者のようで、私は、このオルブライト氏の発言は信用できると考えています。

     いずれにしても、ハムザ氏の発言とUNSCOMの査察報告書とは、大きく矛盾してい ます。にもかかわらず、世界的にイラク攻撃を巡る論議が沸騰している時期に、ハムザ氏 のようないかがわしい人物の、イラクに不利となるようなコメントを、「タイムズ」とも あろう新聞が1面トップに掲載し、それを伝えた共同電を日経新聞が掲載するのですから、 マスメディアのイラク問題に対する報道姿勢には、首を傾げざるを得ません。

     それから、レジュメの6ページに資料として取り上げたワシントンタイムズの記事につ いて触れたいと思います。これはかなり右派系の新聞ですが、2002年8月1日付で「イラ クは軍備を増強している――上院公聴会」という記事を掲載しています。この記事の3番 目のパラグラフは、以下のようになっています。

      「国連大量破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM)のチャールズ・デュエルファー 元副委員長は、国連査察(イラクは4年前から拒否している)は、『一時しのぎにすぎ ず、長期的な解決とはならない』と語った。」

     この「4年前」というのは、先にお話した1998年の経緯を指していますが、そこで指摘 したとおり子細にプロセスを検証してみると、「イラクは4年前から拒否している」とい うように簡単に言い切ってしまうのは、「完全な間違い」とまではいかなくても、非常に 一方的で歪んだ話です。

     また、この間米国サイドが、よく「体制変更」(レジームチェンジ)という表現を使い ます。この言葉は本来、ソ連や東欧で起こったような大規模な社会変革のことを意味する のであって、決して政権のアタマだけをすげ替えることではありません。ところが、米国 がこの本来の意味での「体制変更」を望んでいないのは明らかです。湾岸戦争時にすでに ニューヨーク・タイムズのトマス・フリードマンが、フセイン無しの鉄拳政権こそが望ま しい――と言っています。

     先にも指摘しましたが、イラクの民族構成をみるとシーア派が60%、クルド人が23%も 占めていて、フセインが属するスンニ派は少数派にすぎません。しかも、シーア派はイラ ンと結びつくし、クルド人はトルコ、イラン、シリアにも多数居住しているので、イラク においてこの3者の力関係に変化がおこれば、周辺一帯は蜂の巣をつついたような騒ぎに なることは必定です。ですから、米国にとってはシーア派やクルド人中心の政権は、絶対 認めることはできないのです。

     このため、米国はずっとフセイン体制を支持してきました。現に湾岸戦争後に、南部の シーア派が蜂起しましたが、米国はフセインの弾圧を見て見ぬふりに終始しました。この ようにみてくると、米国は「レジームチェンジ」という言葉こそ使っていますが、その本 音はフセインだけを追い出して、自分の息のかかった人物にボスをすげ替えようというも のだと思われます。その意味で、この「体制変更」(レジームチェンジ)という表現も、 「民主化」を示唆する限り、戦略的な「嘘」の一環と言えるでしょう。

    東チモール:リベラルの戦略(嘘・省略と語る立場)

     これまでみてきたように、イラクについての報道は単純な嘘ばかりですが、東チモール に関しては大分話が違います。私は東チモールの方が、メディアを読み解くうえでは興味 深いと思っています。

     2002年7月17日付のニューヨークタイムズに、「インドネシアの改革されざる軍隊」と いうタイトルの記事がありました。この記事は、結論的にはタイトルのように、「インド ネシア軍は改革されていないので、援助を再開すべきではない」という内容になっていま す。ところが記事の中身をみると、まず、スハルト独裁政権下でインドネシア軍が累々た る人権侵害を繰り返していた時に、それを最も熱心に支援していたのは米国で、しかもそ の支援は99年まで続いていたにもかかわらず、記事では全くそのことに触れていません。 ですから、自分たちの行動には口を拭って、インドネシア軍の行動だけを問題にするのは 不当であり、米国の嘘ということになります。

     さらに、インドネシア軍がアチェやマルク等で、残虐行為を繰り返しているにも関わら ず不処罰のままなので、対テロ活動のパートナーとして相応しくないといっています。と ころが、アチェやマルクに進出した、フリーポート・マクモランやエクソン・モービル等 の企業が高い利潤を上げられるのは、インドネシア軍を傭兵として使っているからです。 ここでも、このような背景が全く無視されています。

     また、インドネシア軍への援助再開問題に対して、インドネシアの人権問題で活動して いるNGO連合が、「文字通りの定義に従うと、インドネシアでテロリストはインドネシ ア軍です。」という手紙を、米国議会に対して出しています。つまり、インドネシア軍は 米国の「パートナーとして相応しくない」どころか、実態はテロリストそのものであるに も関わらず、米国はこの実態に目を瞑っています。

     そのうえで、ニューヨークタイムズの記事は、インドネシアで米国が支援する必要があ るのは、人権問題や地域開発に取り組んでいる市民団体であるといっています。ところが、 このように援助対象として名指しされた市民団体サイドでは、米国政府に対する手紙につ ぎのように書いているのです。

      「私たちは、米国政府に対して、インドネシアの民主派勢力を積極的に支援するよう 求めはしません。私たちは、そうではなく、米国政府に対して、TNIへの支援をしな いことにより、私たちの仕事を容易にすることを求めます。」(インドネシア人権NG O連合、11月9日付米国議会宛手紙より)

     このような力強い市民団体が育っているにもかかわらず、この記事ではインドネシア軍 と米国の支援関係の背景を全てごまかして、「市民団体を支援しよう」と平然と書いてい るのです。このような態度の意味はなにかというと、「いかなる内容であれ、あなたたち について語る権利は、自分たちが持っている」と言っているわけです。つまり、上の手紙 のように、「支援はいりません」と明言しているのに、そういう声には耳も貸さず、米国 の主張を押しつけようとしているのだと思います。

     こうした態度は、内容の善し悪しの問題を超えて、そんな権利があるはずもないのに、 人の存在や人が話す立場というものを略奪しているのです。これが決して「ワシントン・ タイムズ」のようなあからさまな右派系メディアではなくて、ニューヨーク・タイムズの ようなリベラルと言われているメディアが行う、極めて狡猾な情報操作のパターンとして 非常によく目につくものです。

     以上お話したように、マスメディア報道については、結局のところ「単純な嘘」、そし て意図的な「省略」、さらに「語る立場の略奪」といった3系列ぐらいの流れで、現実が 歪曲されているというのが私の考えです。

  3. チョムスキーの主張

     最後に、チョムスキーに戻ります。これまで私がお話してきたことは、マスメディア報 道の最後の「語る主体の略奪」の部分以外は、基本的にチョムスキーがこれまで多くの著 作で語ってきた内容を、私なりにたどってきたものです。私がチョムスキーに惹かれるの は、まれに引用の間違いがあることもありますが、具体的な一次資料を丹念に積み重ねて、 非常に説得的な主張や反論を展開するところです。

     私としては、資料的に詳細な引用・言及のないチョムスキーの発言やインタビューが、 なぜ、最近、大きく注目されるのかがよく分かりません。というのは、彼の原則は非常に 平凡なもので、まず、かのモーゼの「十戒」の中にも見られる「汝殺すなかれ」です。そ してもう一つは、「原則の適用は自他ともに同様になされるべき……」というものです。 この原則に立脚した、詳細なメディア報道の内容や原資料の分析とその執拗さが、チョム スキーの最も注目すべきポイントだと、私は考えているからです。

     そして、こういう作業は、やる気さえあれば、だれでもそれなりにできるはずのものだ と思います。これで私の話を終わります。ありがとうございました。(ますおか・けん)

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