次のメッセージはデビッド・ロイさんの好意により緊急掲載されたものです。(ユーラシア紛争地フォーラム実行委員会)
2003年3月20日、アメリカがイラクに最後通告を宣言した日
新湾岸戦争についての仏教徒の反省
Original English text2003年3月15/16日
デビッド・R・ロイ(文教大学国際学部教授)
翻訳:若林一平(フォーラム実行委員、文教大学国際学部教授)●わたしは思うのだが、仏教は私たちにある特別な洞察を可能にしてくれる。それは今回の狂暴で愚かな戦争がなぜまさに起きようとしているかということについてである。 巨大な国際的な反戦運動の盛り上がりがかくも急激であったわけは、イラク攻撃の「公式」の理由づけが全く道理にかなわないものだからである。
何がなんでも証明しようと躍起になったにもかかわらず、イラクとアルカイダとの関係については何も見つからなかった。
サダムは野蛮な独裁者か?もちろんだが、彼はいつからアメリカ政府の悩みの種になったのか。
われわれ、つまり米国市民が支持を与えその支持を継続して与え続けて育ててきたのが、世界中の多くの野蛮な支配者たちなのである。しかも彼らがわれわれの利益にかなう限りにおいてである。われわれが武器を与え応援したのがサダムであり、そのとき彼が攻撃していたのはイランでありガスで攻めていたのは自国民でもあるクルドの人たちであった。
もし彼の大量破壊兵器をして彼をそんなに危険なものにしているとしたら、なぜこれまでそれらの武器がそんなに苦労をしても見つけられなかったのか?
それならなぜサダムの隣人たちがもっとそれらの武器について心配しないのであろうか?
その理由は、サダムの軍事的脅威は全体の中のひとつの断片であり、その全体は12年前に存在していたものであり今は存在しないものだということだ。
いまほんとうに異常なまでに強大な国家があって、その国家が継続的な開発を続けているのは恐ろしい破壊兵器であり、その国家が継続的に無視しているのが国際的な取り決めであり、それは彼らを制約するものだからである。だが、そのならず者国家はイラクではない。
●では何がほんとうに起きているのか?この点においては仏教の教えが理解を助けてくれる。カルマが強調しているのは人の隠れた思いであり、それを隠しているのがわれわれの行為である。
われわれは苦しみ同時に他者をも苦しませている。そのわけは「三つの毒」あるいは諸悪の根元に行き着く。それは、欲望、悪意、そして妄想である。これらは必然的に変換されて正反対の概念へと到達する。つまり、寛容、親切への愛、そして智恵、である。 これらの問題の存在は集団的でもあり個人的でもある。たとえば、制度化された欲望(つまり企業)、制度化された悪意(つまり軍産複合体)、そして制度化された妄想(つまりメディア)がある。われわれが目にするのはこれらの三つの毒が動かしている新湾岸戦争である。
●欲望?求めているのは石油であることはもちろんだが、ひとつの機会の追求でもある。つくりかえようとしているのは中東そのものであり、しかもわれわれ自身の好むように、あるいはわれわれが考えるようにである。
●悪意?われわれは聞かされてきたのだが、サダムが意図していた暗殺の対象はブッシュ1世だったというのである。さらに重要なことは、たぶん、父の古い親衛隊員たちが戻ってきて権力内部に入り、その結果推進し仕上げようとしているのが第一次湾岸戦争の続きなのだ。
彼らはいまだに怒っているのだが、サダムは第一次湾岸戦争を生き残ったのに、一方で当時のブッシュ政権は次の選挙に勝てなかった。
しかし、もうひとつの要因がある。注意をそらす必要があるのだ。それはある事実からである。つまり、ブッシュ二世商会が未だに闘いに勝利していない、テロリズムとの闘いに、である。
ビンラディーンは追求を逃れ、アルカイダは既に再組織化し始めている。アフガニスタンは逆戻りして混乱状態にある。さらなるテロリストの攻撃も予測では間近とされている。
そもそもこのような失敗を認めるわけにはいかないので、注意をそらして新しい敵に向けさせなければならないのである。
もうひとつの側面を見ておかなければならないのは悪についてである。あるいは、より正確には、新しい標的は人の怒りや欲求不満に向けられたものである。
こうしたことが特別にあてはまるのは大統領の地位とのつながりである。もっぱら地位の保持を目指していたのが、9月11日への対応であった。切り換え時期の選択は完璧であり、そのおかげで成功したのが中間選挙であった。
●このような動機づけは必ずしもすべてはっきりと目に見える形をとっているわけではない。われわれはみなよく知っている、それがどのように機能しているかを。あなたの上司のおかげでつらいことが職場であったとしよう。こんなときあなたが帰宅してから、子どもの言うことが少しばかりいらいらさせる内容だったら、あなたの平手打ちが子どもに向けられるのだ。「八つ当たり」というやつである。
●もうひとつ別の要因があって、それは結局全く別の第二の区分に帰着するものである。それは強い欲求であり、あらゆる新兵器を実地試験してみたいというものである。これらの武器はみなペンタゴン、国防総省、が開発し配備してきたものである。 ほんものの戦場の環境が必要とされているのは機能の確認作業であり、それはいかに首尾良くそれらの兵器が現実に機能するかを確かめることである。しかる後に必要とされるのは、それら兵器の総入れ替えあり、ここであがる利益は兵器企業に帰属するものであることは言うまでもない。ここでもう一度もどってくるのである。最初の諸悪の根元に。
●妄想?これこそまことに興味深い。仏教徒の観点から見たときに。まずひとつ言えることは、集合的な自我膨張とでも呼ぶべきものがあって、その根元にあるのは世界の唯一の超権力である。権力が試されるのは、それに対する抵抗によってである。何者の挑戦もアメリカの軍事統治にはかなわないとき、どんな必要があってそれを抑制しなければならないのか?ひとは自由に再構成した世界を心のおもむくままに描くことができる。囁かれている言葉は帝国である。だが長期的に見ればそのような傲慢は自己破壊に導かれる。なぜなら、失われているのはあらゆる道理そのものだからである。
●しかし、さらにもうひとつの特別な洞察を仏教徒としてここに提出しなければならない。それが結びついているのは「アナッタ」である。これは「無我」の教えである。アナッタの意味するのは、われわれの中心核は空っぽだということだ。
影の部分があって、それはこの空虚の一部であり欠落の感覚である。われわれの無我の意味するのは、われわれの感覚が根拠を欠くということであり、その結果として人生が的外れの要求になってしまい、その要求はわれわれ自身の感覚を無理矢理もっと現実的なものにしようとするのだ。個人として見れば、われわれが求めるのは、現実に代わる象徴的な道に身をおいて、たとえば金とか名声を求める。あるいはわれわれの愛する人の目を通して現実に代わるものを求めるのだ。
だが一方では重要な集団的次元の問題がある。それが育てているのは、諸々のイデオロギーである。たとえば、国家主義や集団闘争であり、後者の例が戦争なのだ。 われわれが常に救われているのは何かを見つけることによってである。欠落の感覚がわれわれを悩ましているのだが、これの原因を外に求め何かを見つけるのである。これを人格化したのが敵であり、敵はそれゆえに必然的に打倒しなければならない。仮にわれわれが目指すものが充足された全体であり、そして癒されることであるならば。
●だからこそ、戦争は神聖なものであり、われわれが暴力好きなのである。これにより、たぶん、われわれは明確な手がかりを与えられる。何についてかと言えば、欠落の感覚についてであり、この感覚はこういうことでもなければわれわれに常につきまとうのであり、それは無定形なやりかたで行われるのである。
暴力が最も注目するのは、われわれの不満の源泉でありそれはわれわれの外に向けられて、そこにおいて破壊が可能になるのだ。
不思議でもないことだが、次いで人々が向かうのは喜びの方へであり、ちょうど戦争が勃発したときにそうなるのだ。ちょうどフロイトやリルケでさえ初めにそうしたように。それは第一次世界大戦の始まるときだった。
われわれが感じる新たな結合が隣人との間に実現するのは闘いの中においてであり、それは最早無意識ではなく、何かわれわれがある意識的な制御の下におくものなのだ。
われわれの問題は最早われわれの内部には無い、それは悪そのものであり、目の前に見えるものだ。どこにあるかと言えば、それはアフガニスタンであり、あるいはイラクなのだ。ということになる。
●さて戦争や革命の結果として欠落からの救済が実現しないなら、われわれは次を求める。またしても、われわれが必要とするのは戦争と継続的な革命になる。
結局われわれはむなしく空洞を埋めようとしているのであり、それはわれわれの核心に位置していることはこれまで述べてきたとおりである。またわれわれ自身をほんとうに現実のものとすることもかなわないのである。こうしてわれわれが常に必要としているのは、新しい悪魔を自分たちの外に求めること(あるいはわれわれの内部にいわゆる「第5列」としてイスラムのテロリスト細胞を求めること)である。敵が必要とされるのは、われわれの欠陥を合理化し、また闘いの相手とするためである。
われわれが隠しているのは以上の事実である。それは自分自身に隠しているのであり、そこで期待しているのは現在の勝利がいつか未来にほんとうのものとなることなのである。
もし、アフガニスタンがだめでわれわれが渇望する安全が実現できないなら、イラクを負かせばよいことになる。
●特別な問題が今日あって、それは、われわれの進化し続ける技術的暴力がこうした戦争遊戯をますます危険なものにしているということだ。
もし、われわれの見通しが及ばず、こうした悪循環をを見逃し、これを止めることができないなら、われわれが破壊するのはわれわれ自身であり、それは他者の破壊の最中に進むのである。
究極的には、われわれの個人として集団としての欠落の解決は精神的にのみ実現可能である。そのわけは、精神的解決という唯一の道により実現するのがわれわれのほんとうの根底なのである。
この要点こそ仏教徒の問題解決の道なのだ。われわれが必要としているのは、われわれの眼差しを戻して自らに向けることであり、対するべきは今そこにいる自分自身なのだ。
してはいけないのは、逃避であり、欠落の感覚から逃げることである。そうするのではなくて、心的充足の訓練(たとえば禅)によってわたしをもっと自覚的に欠落の感覚に向かわせることである。
もしわたしが「自分を忘れる」ことを瞑想の実践により行えば、わたしの核心にある空白は変換可能なものとして、形のない自発的な泉のよう創造性へと到達して自由になり、何にでもなることができるのである。
こうして、わたし自身のブッダという本性の実現はこのように行われるのであり、ということはそれは誰にでも、そう、テロリストにも、サダムにすら、全く同じブッダという本性を実現できるということである。
仏教が強調しているのは非暴力である。非暴力という道が相いれないのは、いわゆる「あがないのための暴力という神話」である。この神話が思いこんでいるのは暴力こそ問題解決への道だという考えなのである。
2003年3月15/16日
デビッド・R・ロイ