ユーラシア紛争地特別フォーラム(2002年3月9日、早稲田大学小野講堂)レポート
●第3部 デビッド・ロイ氏スピーチ

グローバリゼーションは新しい宗教なのか?

デビッド・ロイ(文教大学国際学部教授)

〈通訳・井手マヤ氏〉


はじめに

 まず主催者と若林先生に、本日お招きいただいたことを感謝したいと思います。実は私は文教大学の国際学部で教鞭を取っていますが、その国際学部の学部長が若林先生なので、当然、彼のお招きは拒否できないわけですね(笑)。それ以上に、やはり現在のこの世界の情勢について、私も大変強い懸念を抱いていまして、今回このフォーラムに参加させていただくことを大変喜んでいます。

 本日、日本語でお話ができないことを、大変申し訳なく思っていますが、幸い、井手マヤさんが通訳して下さるので、私の話は十分に皆さんに理解していただけると思います。

 これまでのご講演を聴き、またこの数年間の状況を考えてみると、本当に世界情勢は狂ってしまったとしか言いようがありません。そして私たちがいま求めているのは、やはり新しい考え方だと思います。つまり、新しい道を切り拓くための、新しい考え方が求められているわけです。本日私は、直接テロの問題についてふれません。ただ、このテロを起こす根本原因について、私なりの洞察をお話させていただきたいのです。

資本主義体制が唯一の選択肢

 最先端の情報技術が持つ可能性や、ますます市場拡大する多国籍企業の活動などを見ていますと、だれもがグローバル化の恩恵を享受できる、という錯覚に陥りがちですが、これは幻想です。人類はどのように共存していけるのでしょうか。グローバリゼーションは、共存のための体制に対し、どのような影響を及ぼしてくるのでしょうか。こうした疑問の答えを探す過程において、グローバル化の実態が見えてくるわけです。

 世界には、実に多様な人間観が存在し、それぞれが人類の役割、地球に対する責任のあり方について、一定の立場を持っています。こうした多様な人間観がぶつかり合い、主導権争いを繰り広げているのが、グローバリゼーションの実態です。そこで皆さんに是非、異なった考え方に目を向けていただきたいと思います。なぜなら現在われわれが直面している状況においては、明確な立場をもつことが重要であり、中立的であることは不可能だからです。

 1989年以来、資本主義に対抗できる経済体制はありません。現在われわれに残された選択肢は、市場経済を導入するかどうかではなく、どのタイプの資本主義を形成するかです。最近、世界貿易機関( W T O)が発足しましたが、これは、完全な市場の開放を目指しています。世界の資源そして市場へのアクセスを自由化し、企業活動を促進するために、貿易障壁や各国の国内規制の撤廃を目指しているわけです。自由貿易体制は人類を豊かにする、最善の方法であるというのが、その政策の根拠となっています。

 こうした立場に批判的な勢力は、これが神話であると主張しています。経済のグローバル化で得をしているのは富裕層であり、資本を投下できる能力のある資本家であると言っています。貧しい人は、土地や地域の資源を奪われ、さらに貧しくなっていくというのが彼らの主張です。1999年の国連開発機構の報告によると、70か国、50億人にのぼる人々は、25年前と比較して、消費量が減っているのです。世界人口の20%を占める最も豊かな人々(これには皆さんも含まれます)が、全世界の消費量の86%を消費しています。それに対し、世界人口のうち20%の最も貧しい人々は、世界の消費量のうちわずか1.3%しか消費していないのです。そしてこの格差はますます広がっています。

 その結果、毎週25万人もの子供たちが、栄養失調や感染症で幼い命を落とし、たとえ生き延びたとしても、何百万人もの子供たちは、飢餓や健康障害、あるいは健康の悪化に苦しんでいます。

市場が神になった

 我々はこのような主張を何度も何度も聞いているわけですが、人間はどう共存し、どの人間観をその基盤に置くべきなのでしょうか。この問題を考えるに当たり、私はこの葛藤あるいは対立に深く関与している重要な要素、つまり宗教について触れたいと思います。宗教は、伝統的に重要な役割を果たしてきました。従来、重要な価値観の形成過程において、宗教は拠り所となるような基盤を提供してきたわけです。従っていま、グローバル化しているこの世界において、どういう社会を今後形成していくのか。この問いに対して、宗教はどんな貢献ができるのでしょうか。

 宗教を定義することは大変困難であり、私のような学者でさえ、従来の共通の定義に同意することはできないわけであります。しかし、私は宗教は生きるための土台を提供する役割を果たすと考えています。即ち、宗教は私達に対し生きるための指針を提供するわけです。こうした観点から考えると、この「市場」という信仰は、非常に短期間で多くの人を帰依させることに、大変成功しています。

 一方、伝統的な宗教は、その役割がますます果たせなくなっています。なぜなら、新しい価値体系が、宗教に取って代わってきているからです。ところで、現代人は世界の事象を理解するために、自然科学の説明力に頼ります。たしかに消費主義は、現代人にとって最も魅力的な価値体系です。言い換えれば、現在のグローバル化した経済体系は、宗教的な役割を果たしているが故に、一種の宗教であります。つまり、市場こそが神様になってしまったわけですね。

 ですから今日の経済学は、もはや社会科学の一分野に止まらず、宗教的議論に衣更えしたのだと私は思います。生産と消費の循環が、永続的に拡大すると信じる現代人は、資本市場を神格化し、世俗的な救いを求めます。昔、人々は心の安らぎを求めて神社や寺院に参拝しました。ところが現代人は、寺院やカテドラルの代りに銀行や株式市場を崇拝し、精神の拠り所にしているというわけです。

 このように考えると、市場経済のグローバル化は、ただ単に自由貿易体制の勝利を意味するだけではありません。消費主義に対する世界観、価値観が、他の価値観に勝利したのです。経済学者の主張とはウラハラに、この勝利は決して自然でもなければ、必然的でもありません。この経済体制は、現在という歴史的な条件に規定された世界秩序の1つのあり方にすぎません。しかしそこには、独自の宗教原理と倫理体系を持った、宗教的な世界観が内在しているのです。人間の生き方を説く、他の多くの世界観と競合しているわけなのです。

市場経済は全てを商品化する

 さて、自由貿易体制に内在する世界観を分析すると、際立った特徴として、市場経済は人間を含めて全てのものをコモディティ化する、つまり商品化するという傾向があります。例えば我々は、我々の時間とか労働を売っているわけです。資本主義は、18世紀後半に起こった産業革命によって重要な時期を迎えます。技術革新は、土地、労働、資本を大量に解放し、これらが商品として市場で売買されるようになったのです。資本市場の自由な発展と、生産性の向上を目指して、世界の資源が分割されたのです。

 資本家の中には、産業革命時に膨大な利益を享受できた者が現れましたが、大衆にとっては、この商品化された経済というのが、悲劇的な状況を作ってしまったわけです。地球も、搾取すべき資源の宝庫として商品化されたのです。人間の労働も、そのときどきの需給によって価値が変動する商品として、売買されるようなってしまったのです。

 現代の社会や経済体系は、まさしく世界の商品化の過程で形成されたのです。そしてそのプロセスは、まだ完了していません。I M F、世銀、W T Oが目指しているのは、世界のコンビニ化です。搾取すべき資源をそのコンビニの商品として提供し、生産した商品の市場を作ることが、彼らの狙っているところです。

 宗教の観点から考えると、地球そして生命ある全ての物は、非神格化されています。つまり、商品として売買の対象となるための、商品価値しか与えられないわけです。従って、我々の精神面、あるいは神聖な側面というものが、矮小化されてしまっているのです。

 市場経済が全ての物を商品化することは、自然でもなく、必然的でもありません。しかし、この新興宗教は見事なほどのテクニックを使って、布教活動に成功しているのです。私は哲学者であり、宗教学の教鞭をとっているわけですが、週に数時間、学生を相手に宗教講義を続けても、教室の一歩外に出れば、消費意欲を刺激する魅力的な宣伝広告には敵いません。雑誌や新聞を開いても、電車、公共交通機関などに乗っても、「私を買ってくれ」「私を買ってくれ」という宣伝広告ばかりが、目につくのです。

 1999年の国連開発機構の報告によると、1998年、世界の広告宣伝に向けられた投資額の総額は、4,350億ドルに上り、そのうち米国はその半分を占めています。この数字は、P R やマーケティングに関わる経費を含んでいません。この P R やマーケティング投資額は、1,000億円を上回るものです。そして先進国の子供は、途上国の子供よりも30から50倍も地球を汚染していることが、同じ国連の報告に記載されています。2億7,000万人の青少年が同じポップ文化を楽しみ、同じブランド品を着て、同じ音楽を聴いて、ソフトドリンクを飲むわけです。信じ難い消費量です。

 ワールドウオッチ・インスティテュートの調査によると、1950年から50年間にわたって、世界で消費された財やサービスの量は、米ドル換算で、有史以来の全消費量を上回っています。

過剰消費は我々を不幸にする

 経済のグローバル化の一つの側面である消費主義は、宗教的現象としてしか理解することはできないと思います。米国をはじめ世界各国は、幸せを求めるための新しい方法を喜んで受け入れているからです。伝統的な宗教(これは仏教をも含めてですが)は、消費主義とはまったく異なる救いの道を示しているのですが、グローバル消費主義の宗教的側面を無視することはできないと思います。

 こうした伝統的な宗教の観点から、グローバル化した消費主義を考えてみると、2つの問題が浮き彫りになります。それは、欲望と妄想という問題です。自由市場は人間の欲望をかき立てます。そして経済が拡大するためには、消費を刺激し続けなければなりません。生産の問題は、技術的にはもう既に解決済みですが、現在の経済的課題は、いかに需要を創出するかにあります。従って、欲望を戒めるような考え方は、無視されています。

 伝統的な宗教はその世界観ゆえに、人間の欲望を抑制することを善と教えます。重要な点は、我々は人の影響を受けやすい、ということです。だれもが、自己中心的な側面と博愛主義的な側面を持っています。異なった矛盾する性格が、1人の人間の中に混在しているのです。そこで社会が直面する問題は、人間のそうした多様な性格のうち、どの性格、あるいはどの要素を奨励し、強調し、どの要素を抑制し規制すべきなのかということです。宗教家は、人間の暴力的、攻撃的な本能が支配する社会を容認できないと同じように、人間の欲望を助長する経済体制は容認できないのです。

 問題の本質は、人間の欲望を駆り立てているものは妄想だということだと思います。つまり、欲望を満たせば幸福になれるということこそが幻想にすぎません。仏教は、日常の不幸の源は、飽くことの無い欲望であると教えます。我々は消費に陶酔します。しかし、過剰消費は我々を幸せにするどころか、さらに我々を不幸にします。皮肉にも、消費中毒になればなるほど、幸せになれないということです。

1999年の国連開発機構の報告によると、「幸せである」と答えた米国人の割合がピークに達したのは、1957年であります。その後、米国人の個人消費が2倍に拡大したにもかかわらず、幸せと感じている米国人の数が、下降現象にあるのです。減少しているのです。つまり消費生活は、米国人の幸福感に寄与してはいないのです。米国における家計調査の結果から、1986年と94年を比較したときに、回答者が「必要」とした年収の額は、2倍になっています。なぜでしょうか。消費者は常に、より多くの物を求めるからです。

新しい宗教的理念が求められている

 この点こそが、経済開発が抱えている課題です。現在、政府や企業は経済開発を至上命題としています。経済開発によって世界60億の人々に、衣食住や医療サービスの提供が可能になるのであれば、我々はこの経済開発を是認できるでしょう。しかし、経済開発そのものを目標にすべきではありません。現在、経済開発政策は至上命題になっていますが、その理由は、我々は他に目標が無いからです。救いをどこに求めるのか、幸せに生きるための道しるべは無いのです。しかし近年、経済成長路線の限界が明らかになってきました。地球環境の破壊、地球の温暖化がもう抜き差しならない段階にきています。

 さて、最後に結論を述べたいと思います。真の宗教家であれば、その主張を鮮明にすべきだと思います。これはキリスト教、イスラム教、仏教など全ての伝統宗教について言っているのです。経済のグローバル化がもたらした価値観の商品化に対し、「資本市場/消費市場」という現代の擬似的“宗教”に取って代わる新しい理念を、伝統的な宗教は提唱すべきだと思います。

 もし、これが提唱できれば、私は現在、テロの多発という悲惨な状況を作っている出口のない抑圧された状況を、かなり緩和できるのではないかと信じています。

 ご清聴有り難うございました。

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2003 ユーラシア紛争地フォーラム実行委員会