ユーラシア紛争地特別フォーラム(2002年3月9日、早稲田大学小野講堂)レポート
●第2部(4)清水氏発言

カシミール問題を中心とした南アジアの動向

清水 学(宇都宮大学国際学部教授)


南アジアで最大の紛争、カシミール問題

 私に与えられたテーマはインド、パキスタン問題ですが、アフガニスタンの問題を考える上で柴田先生のご指摘のように、インド、パキスタンの関係が非常に大きな影を落としていています。具体的にいうと、パキスタンがアフガニスタンのタリバン政権を育成して、それを支えることによってアフガニスタンの大部分を統治するのに全力を挙げていたのは、9割方インドに対する戦略であったと考えることができます。

 インドとパキスタンが1947年に独立してから、タリバン政権時代を除くとアフガニスタンで成立した政権は、ほぼインドとの関係が良好な政権でした。その中でタリバンだけが唯一例外だったと考えられます。また、ソ連のアフガニスタン介入により、アフガニスタンから大量の難民がパキスタンの特に北西部に流入し、パキスタン自身の社会的・経済的な問題を引き起してきたことも事実です。  本日、ここで私がお話するのは、アフガニスタンとの関係で、南アジア最大の紛争といえるカシミール問題が、この地域全体にどのようなインパクトを与えているのかについてです。インドとパキスタンはカシミール問題をめぐって長期間にわたってずっと対立しているわけですが、ご存じのように1998年の5月にパキスタンとインド両国が核実験を行い、現在、両国は核兵器の保有国となりました。しかもこの両国は国境を接している隣り合わせの国です。ですから、紛争地域が国境地域に展開しているという点では、紛争の進展次第によっては、極めて危険な状況が生まれかねません。もっといえば、偶発的な核戦争発生の事態も、考慮の外に置くことができないのが実状です。

 一昨年の暮れに私がパキスタンに行った時、当時の戦略問題の研究所の所長さんが「核の管理は非常に難しい。かなりきちんと抑えておかないと、我々の立場からみても、ちょっとした事で偶発的な戦争に使われてしまう危険がある」といっていたのが、大変印象に残っています。カシミール問題は、1989年から再び新たな緊張と対立が続いています。1989年という年はちょうどアフガニスタンからソ連軍が撤退した年です。ソ連軍が撤退したため、アフガニスタンで活動していた各種のムジャヒディン勢力の一部が、新たな活動の場をインドが支配しているカシミールの方へ移したので、カシミールにおける対立が激しくなり、それが現在まで続いているわけです。

 インドのカシミール地方に、スリナガルという大変美しい町があります。スリナガルという名前そのものが「美しい町」を意味するのですが、ちょうど1989年ごろまでは湖にボートハウスを浮かべて、観光客たちが自然の美しさを楽しみながら、ゆったりと旅をするような絶好の観光地でした。当時、観光客が年間60万人といわれたのが、戦火の拡大によって、現在では訪れる人は1万人以下という状況になっています。私が最近読んだフランスの「ル・モンド」紙によると、その記事の筆者はこれまでベトナム戦争やレバノンの内戦を取材したことのある記者なのですが、彼がカシミールに行って驚いたことは、警備にあたっている兵士の数が非常に多く、かつてのベトナムやレバノンよりも軍隊が大掛かりに展開されていることだったようです。

ヒンドゥー教徒の藩王とイスラム教徒の住民

 それでは、カシミール紛争はなぜ起きたのか、どういう性格を持っているのかなどについて話を進めましょう。カシミールは大きく3つぐらいの地域に分けることがてきます。まず、1949年の停戦ラインを境に北西部がパキスタン領のアーザード・カシミールです。そして、南東部がインド領のジヤム・カシミール、さらにチベットの西側にあたるラダック地区は、ラマ教徒たちが沢山住んでいますが、インドに主として帰属しています。停戦ラインのインド側でイスラム教徒たちが多く住んでいる地域が、紛争の焦点となっているのです。

 なぜカシミール問題が起きたのでしょうか。第2次世界対戦後の1947年8月にインドとパキスタンの両国が、もともとイギリスの支配下にあったインドから独立しました。といっても8月14日にパキスタンが独立し、翌15日にインドが独立したのです。この1日違いには大きな意味がありました。というのは、パキスタンはイギリスから独立したインドから独立するのではなくて、あくまでも大英帝国からパキスタンが先に独立するという意味から、独立を1日早めたのです。

 その時に、一応イギリスが作った分割案では、イスラム教徒が多く住んでいる地域はパキスタンに所属する方向に沿っていました。ところが、かつての英領インドには約500 にも及ぶ半独立のような立場の藩王国が存在していました。そして、この藩王国については、藩王にインドとパキスタンのどちらに所属するかの選択権を認めたのです。カシミールもこの藩王国の一つでした。藩王のハリー・シンはヒンドゥー教徒であったうえに、あわよくば独立という思惑もあって判断に迷っているうちに、併合を急ぐパキスタン側からゲリラが侵入してきました。このためハリー・シンは慌てふためいてインドに助けを求め、インド軍も参戦したために、カシミールはインド支配地域とパキスタン支配地域に分割されてしまったわけです。

 つまり、藩王がヒンドゥー教徒なのに、住民の大部分はイスラム教徒であったというところに、カシミール問題の複雑性の根源があります。その後、インドとパキスタンはカシミールの領有をめぐって抗争してきました。最近では、1999年5月上旬にカシミールのカルギル地域で、停戦ラインを越えてパキスタンの支援を受けたイスラム・ゲリラ勢力が侵入し、インド軍の山岳陣地数か所を占拠し、それがきっかけで事実上の小戦争となるという、いわゆるカルギル紛争が勃発しました。これまでの経緯で分かるように、このカシミール紛争の性格を単なる領土問題と考えたのでは、その複雑性が理解できないことになるわけです。

インドとパキスタンの「国家理念」の正面衝突

 非常に根本的な問題として、インドとパキスタンは建国の理念が全く異なっていることがあります。まず、パキスタン側からすれば、英領インドにはヒンドゥー民族とイスラム教徒という2つの民族が存在し、そのうちのイスラム教徒が民族自決権を行使して独立したのがパキスタンであるという考え方が、パキスタンの国家理念となっています。一方、インドの場合は宗教問題は本質的なものではなく、セキュラリズム(世俗主義)つまり非宗教的国家という原則を国家理念としています。つまり、インドの場合は国民は宗教とは無関係に、同様の市民権を得ているのが原則です。

 この両国の国家理念の違いを前提とすると、カシミール問題の本質とは両国の国家理念の全面的な衝突であることが分かります。つまり、パキスタンにとっては、イスラム教徒が多く住んでいる場所は、パキスタン領に属するのが民族自決の理念からいって当然である――という主張になります。ところが、インド側から見ると、イスラム教徒が多数を占める地域はインドの領域に属さないことになると、インドの「世俗国家」という理念が無視されることになるのです。

 もちろん、かつての国際的冷戦構造の中では、アメリカとパキスタンが事実上同盟関係となり、インドとソ連は非常に特殊な関係を結んで、国際政治的な対立構造を形成していました。ところが、この冷戦構造が崩壊してからも、パキスタンとインドの「国家理念の正面衝突」という問題は、ずっと生き続けて現在に至っているのです。

 そこで、現在のカシミール問題の性格ですが、この間の国際情勢の変化の中でパキスタン、インドの双方で、「国家理念」レベルで微妙な変化が起きてきています。1979年から89年に至るソ連のアフガニスタン侵攻の中で、無神論国家ソ連対国際的なイスラム勢力の対決という図式が成立し、イスラム各国からやってきたムジャヒディンといわれる多くのイスラム戦士が、アフガニスタンでソ連と激しい戦いを演じました。そして、こうした戦いに、パキスタンが大きな役割を演じたことはご存じのとおりです。ソ連軍のアフガニスタンからの撤退が実現すると、この図式がカシミールに横滑りして、ヒンドゥー勢力に対するイスラム勢力の国際的戦いという、理念の国際化が進展していったのです。

 一方、インド側も大きな問題を孕んでいます。それは、ご存じのようにインド西部のグジャラート州の中心都市であるアフマババードにおけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の紛争の激化です。ヒンドゥー教徒がイスラム教徒居住地域を焼き討ちし、500 人以上が死亡しています。この騒動の発端は1992年、北インドのアヨーディヤで発生したイスラム教モスクのヒンドゥー教徒による打ち壊し事件でした。このモスクは、ムガール帝国時代にヒンドゥー教の寺院を破壊した上に建てられたと言い伝えられるいわく付きのもので、過激なヒンドゥー教徒団体である世界ヒンドゥー協会を中心とする勢力が集団で打ち壊しを行い、これにともなう衝突で3,000 人以上が死亡したといわれています。

         この動きは、インド国内でヒンドゥー主義が急速に頭をもたげてきたことを象徴するもので、1990年代以降のインド政治を彩る特徴なのです。そして1998年の総選挙では、この世界ヒンドゥー協会と関連のあるインド人民党が第一党に躍進しました。現在のインド政府はこの党を中心として23の政党が参加している連立政権で、現在首相を務めているのがバジパイ氏です。表向きには、あくまでインドは世俗主義的国家であるといっているのですが、現政権の支持勢力の中ではヒンドゥー教パワーが非常に強まっています。

 重要なことは、パキスタンとインドのそれぞれの変化によって、カシミール問題もかつての「ムスリム国家」(パキスタン)と「世俗主義主義国家」(インド)の対立という単純な図式から、ムジャヒディンの投入などを通じたイスラム勢力と、世俗主義国家の看板は降ろしてはいないが実体的にはヒンドゥー教色を強めてきたインドという、国際的な広がりや宗教的対立の深刻化も加わった、複雑な図式に変化してきていることだと思います。

カシミール住民の声をいかに反映させるか

 歴史的に前後しますが、ここで、パキスタンとインドが分離する前後の事情を簡単に振り返ってみたいと思います。ムスリム国家としてのパキスタンの建国運動を指導したのは、ジンナーという人物でした。彼の行動の軌跡を辿ってみると、面白い事情が浮かび上がってきます。彼は1930年代半ばまで英領インド国内のムスリム連盟の指導者の一人でしたが、最も「ヒンドゥー教徒との共存」を主張していた人物でした。ところが、彼は1930年代の後半に、分離強硬派に態度を豹変させます。  この背景としては、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を操作するイギリスによる分断政策が大きく影を落としています。しかし、同時に大きな理由が、ヒンドゥー教徒側の指導者の対応の中にあったのです。というのは1937年の英領インド国内の州選挙で圧勝したインド国民会議派(ヒンドゥー教徒が中心)は、多数派の立場をいいことに民主主義や多数派支配のルールを楯に取って、イスラム教徒を政権から一切排除しようとしたのです。

 この動きを見てジンナーは、このままではインドが独立した後に、自分たちイスラム教徒のエリートが存在するべき場所がなくなってしまうという危機感から、大衆を煽動して急激にパキスタンの建国に動いたのです。そして、大変残念なことには、インドとパキスタンの独立時の混乱によって、双方で約100 万人の死者が出てしまいました。

 カシミール問題では、なんとしてでも、このような悲劇を回避することが最大の課題です。このためには、両国の国家的な思惑はともかくとして、問題の解決にあたって、現実にカシミールに住んでいる住民の声を、いかにして反映させていくのかという原点に立ち戻って考えていくことが、最も重要だと思います。その場合には、カシミールのインド、パキスタン両国からの独立の可能性といったオプションも視野に入れた政策を、考える必要があるのではないでしょうか。

 ところで、9.11に「同時多発テロ」が起き、10月にアメリカがアフガニスタンにおける空爆を実施して以降、インドとパキスタンの関係とイスラエルとパレスチナの関係には、米・アフガニスタン関係と非常に類似したパターンが見られます。つまり、強い方(インドとイスラエル)が弱い方(パキスタンとパレスチナ)に対して、テロ行為を理由として様々な圧力をかけていくというパターンです。

 インドとパキスタンの場合、もちろんパキスタンにも問題が無いわけではありませんが、インドの圧力の加え方は非常に露骨です。テロが起きると、それは全てパキスタン側の責任として、トコトン追い詰めていく論理が働いているように思えます。これまでのインドの対応には、こういうやり方は見られませんでした。私は、従来からのイスラエルの対応とよく似たインドの強圧的な対応は、非常に深刻な懸念材料だと考えています。

予断を許さないスリランカ情勢

 最後にスリランカについて、少し触れておきたいと思います。ご存じのようにスリランカでは過去10数年間、多数派のシンハラ族と少数派のタミル族との間で、激しい内戦が続いてきました。これがいわゆる民族紛争なのか、あるいは別のものなのかについては、いろいろ考え方があるようです。

 特にインドと違ってスリランカには、2種類のタミル人が住んでいます。一方はセイロン・タミルと呼ばれ、過去2000年以上前に南インドのタミル地域からスリランカにやってきて、住み着いている人たちです。その他にインド・タミルと呼ばれる人たちがいます。この人たちは19世紀以降に、茶やゴム栽培をするプランテーションで働くためにインドから連れてこられ労働者です。

 スリランカにおける紛争は、後から来たインド・タミルではなく、元々スリランカ北部に住み着いているセイロン・タミルと、多数派のシンハラ族との間で、タミル多数地域における指導権、言語や宗教の対立をめぐって戦われてきたものです。例えばセイロン・タミルはヒンドゥー教徒であるのに対して、シンハラ族は仏教徒というような対立です。

 2000年11月から、タミル側の抵抗組織、タミル・イーラム解放の虎(LTTE)とスリランカ政府の和平交渉が、ノルウェーの仲介によって行われ、一応停戦協定が結ばれました。今後の展開については予断を許さない状況ですが、従来の冷戦期とは違った流れが働き始めているわけですから、やや期待が持てるのではないかと考えています。有り難うございました。

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2003 ユーラシア紛争地フォーラム実行委員会