ユーラシア紛争地特別フォーラム(2002年3月9日、早稲田大学小野講堂)レポート
●第2部(3)柴田氏発言

アフガニスタン暫定政権の不安と期待

柴田 和重(アフガン・ネットワーク)


近・現代史を振り返る

 いま、アフガニスタン情勢は流動している最中でありますが、そのアフガニスタンの歴史について、まず振り返ってみたいと思います。現在につながるアフガニスタンの建国は、1747年にパシュトゥーンのアフマド・シャーが初代国王として即位した時に遡ります。そのアフガニスタン王国は、現在のアフガニスタンばかりでなく、パキスタン、さらにはインドとパキスタンとの間で係争中のカシュミール、それから、イラン北東部のホラーサーン地方まで含めた広大な地域を、18世紀の半ばから19世紀近くまで支配していました。

 その後の19世紀に入ると、東側からはインドを植民地化したイギリスが、北側からは南下政策を続けてきた帝政ロシアが、徐々にアフガニスタンに向かって姿を現すようになってきます。帝政ロシアの南下を恐れたイギリスは、アフガニスタンを直接統治しようとして、1838〜42年と1978〜81年の2回にわたりアフガニスタンに軍隊を派遣しました。しかし、イギリスは、アフガニスタンの頑強な抵抗に遭遇したために、アフガニスタンの占領を諦めて、アフガニスタンの内政に干渉しないのと引き換えに、その外交権を獲得して保護国化する道を選びました。アフガニスタンの外交権を握ったイギリスは、帝政ロシアとの間でアフガニスタンの北部から西部に至る国境線を確定していきました。このために、タジク、ウズベク及びトルクメンといった民族が、その国境線により分断される結果になりました。

 さらに、イギリスは、アフガニスタンとの勢力圏境界を取り決めるために、デュランド特使を派遣しました。このデュランド特使と時の国王アブドゥル・ラーマンとの間で、1893年にデュランド協定が締結され、現在のアフガニスタンとパキスタンとの国境線が実質的に決められてしまいました。この境界線、すなわち、デュランド・ラインによって、アフガニスタンの最大構成民族パシュトゥーンが、現在のパキスタンとアフガニスタンとの間で分断される結果になったわけであります。ですから、現在のアフガニスタンの国境線は、イギリスと帝政ロシアとの覇権争い、そして、イギリスの身勝手な植民地政策により形成され、複数の民族が人工的に分断されてしまったわけであります。

 このパシュトゥーンの分断は、第2次世界大戦後すぐに、非常に難しい問題を引き起こす結果になります。第2次世界大戦後にインドとパキスタンとが分離独立する際、現在のパキスタン側のパシュトゥーンの居住地域は、インドとパキスタンのいずれに帰属するかを巡って住民投票を行うことになりました。その時、この住民投票に異議を唱えた政治家がいました。すなわち、パシュトゥーンの民族運動家で「辺境のガンジー」と呼ばれるガッファール・ハーンであります。ガッファール・ハーンは、パシュトゥーンの国を作ろうと主張し、「パシュトーニスターン独立」も、住民投票の選択肢の中に加えるように要求しました。これには、パキスタンの分離独立を掲げるパキスタン・ムスリム連盟(P M L)が強く反対したために実現に至りませんでした。一方、当時の国王ザーヒル・シャーのアフガニスタン政府は、このガッファール・ハーンの主張を支持しました。このため、独立したばかりのパキスタンとアフガニスタンとの関係は、冷え切った状態が続いていく結果になりました。東側でカシュミール問題を巡って「巨象」インドと対峙するパキスタンにとって、西側に戦略的奥行きを確保するために、アフガニスタンに親パキスタン政権を樹立するのが悲願となっていったわけであります。

 さて、アメリカとソ連邦とは、冷戦構造の中で、アフガニスタンを取り込むために援助合戦を展開しました。しかし、アメリカは、アフガニスタンに軍事援助を与えるのを拒否し続けました。これは、パキスタンが、アメリカによるソ連邦封じ込めの重要な同盟国であったからであります。パシュトゥーニスターン問題でパキスタンと対峙するアフガニスタンは、当然ながらソ連邦に接近していき、ソ連邦もアフガニスタンを自らの陣営に取り込むのを期待して、軍事援助要請を快く引き受けたのでありました。しかし、1970年代半ばに、当時のアフガニスタンのダーウド大統領(1973年の無血クーデターで国王ザーヒル・シャーを追放して共和制に:ダーウドとザーヒル・シャーとは従兄弟同士)が、ソ連邦から距離を置く姿勢をみせると、ソ連邦は行動を起こしました。それの結果が、1978年4月の社会主義革命であり、79年12月のソ連軍のアフガニスタン侵攻でありました。19世紀半ば、イギリスと帝政ロシアが覇権争いをする中で、イギリスがアフガニスタンに侵攻しましたが、それから約1世紀を経過しアメリカとソ連邦が覇権争いをする中で、今度は政権の体裁を変えた「北の大熊」がアフガニスタンに侵攻したのでありました。

 ソ連軍もかつてのイギリスと同様に強い抵抗に遭遇し、本国ソ連邦の崩壊が徐々に進展していく中で、ついに1989年2月までに完全撤退していきました。しかし、その後もアフガニスタンでは内戦が続いていきました。1992年4月までは、社会主義者と聖戦士ムジャーヒディーンとの内戦が、その後は、政権を握ったムジャーヒディーン各派間の争いが続いて、国土は益々荒廃し、治安は乱れていきました。そのような中で、パシュトゥーンの本拠地である南部のカンダハールに、治安の回復を掲げた「世直し運動」の旗手ターリバーンが1994年11月に出現しました。このターリバーンは、パキスタンの支援を受けて1996年9月に首都カーブルを占領するのに成功しました。パキスタンの悲願である親パキスタン政権が、アフガニスタンに樹立できたかのように思われたわけであります。  ターリバーンは、カーブル占領後も支配地域を拡大していきました。2001年9月11日の「同時多発テロ」が発生する前の状況をみますと、反ターリバーン勢力は、北東部に押し込められたような状態に陥っていました。それでも、反ターリバーン勢力は、ターリバーンに対して頑強に抵抗を続けていました。このような中で、ターリバーンにも、変化が生じてきていました。ターリバーンを支持したパシュトゥーンの中には、内戦が続く中で厭戦気運が高まりつつありました。そのために、ターリバーンにとって信頼できる部隊は、アラブ・アフガンをはじめとする外人部隊になっていきました。それを取り仕切っていたのが、アメリカが「テロの黒幕」と名指しするオサーマ・ビンラーディンでありました。当然ながら、ビンラーディンのターリバーン中枢への影響力が強まっていました。2001年1月の国連による制裁強化発効後、ターリバーンの過激な言動が目立つようになり、3月にはバーミヤーンの石仏を破壊しますが、これも偶像崇拝を極端に嫌うワッハーブ主義者であるビンラーディンの影響によるものと指摘されております。

 このようなアフガニスタンの状況を一変させたのが、「同時多発テロ」でありました。ご存じのように、ブッシュ大統領は「対テロ戦争」を宣言し、ビンラーディンを匿うターリバーン政権打倒に向けて軍事行動を開始しました。ターリバーンは、11月半ばに首都カーブルから撤退し、12月初めには、本拠地カンダハールからも姿を消したわけであります。その権力の空白を埋めるために、11月下旬にドイツのボンで、アフガニスタンの代表者会議が開催されました。紆余曲折の後、現在テレビによく登場するカルザイ氏を議長とする暫定行政機構を樹立することで合意しました。その暫定行政機構は12月22日に正式に樹立され、治安維持のためにイギリス軍を主体とする国際治安支援部隊(I S A F)がカーブルに展開されていきました。また、荒廃したアフガニスタンの復興を支援するために、東京で2002年1月21〜22日に、アフガニスタン支援国会議が開催されました。この支援国会議で、各国の代表は、1年目18億ドル、総額で45億ドルの支援を表明しました。これで、23年間にわたる戦乱で荒廃したアフガニスタン復興への道筋が、表面的にはつけられたわけであります。

有力部族出身のカルザイ議長と不安定な閣僚構成

 ここで、暫定行政機構の中身をちょっと見てみたいと思います。まず、議長に就任したカルザイ氏は、加藤先生からお話のあったアフガニスタンの最大構成民族パシュトゥーンで、その中でもドゥッラーニーという大きな部族連合体の出身であります。アフガニスタン建国の父アフマド・シャー以来の歴代の国王は、全てこのドゥッラーニー出身であります。アフマド・シャーは、ドゥッラーニーの中のサドザイ家の出身でありましたが、その本家筋にあたるのがポーパルザイ家であります。カルザイ氏は、そのポーパルザイの出身であります。パシュトゥーンは、血縁関係を重視する部族主義的傾向が非常に強いとされています。その意味からいって、カルザイ氏は申し分のない出自であるといえます。

 カルザイ氏の父親は、パキスタンのクエッタで1999年に暗殺されました。その背後にはターリバーンがいるとされ、父親が暗殺されたのをきっかけに、カルザイ氏が反ターリバーン色を鮮明にしたとされています。また、後に述べますが、カルザイ氏はアメリカとも太いパイプを持っています。ボンでの会議の裏で、アメリカが強い影響力を行使したとされています。暫定行政機構の議長にカルザイ氏を押し上げた裏には、このようなカルザイ氏の素性があると考えられます。

 このカルザイ氏を議長とする暫定行政機構の30名の閣僚を見てみますと、当然ながらターリバーン撤退後にカーブルに入城した反ターリバーン勢力北部同盟が19名と過半数の割合を占めております(図2−1)。民族的にみますと、この北部同盟の主力を担ったタジクが40%を占めております。アメリカCIAの人口資料と比べてみても、閣僚に占めるタジクの割合が突出していることが分かります(図2−2)。特に、最大構成民族パシュトゥーンにとって不満なのは、治安部門で重要な国防相と内相、さらには、外相のポストがタジクに独占されている点でありましょう。カルザイ氏自身は、軍事的基盤を持っておりません。多くのパシュトゥーンは、カルザイ氏は単なる飾りで、実質的に政権を握っているのはタジクであると見なす可能性があります。アフガニスタンの歴史において、1929年の短期間と1994〜96年を除いて、パシュトゥーン以外が政権を握ったことはありません。誇り高いパシュトゥーンにとって、暫定行政機構の閣僚構成は非常に不満の残るものであり、国連やアメリカをはじめとする外国勢力に押しつけられたものであるとの感情が燻っているといえましょう。

今後の政治的不安要因

 アフガニスタンの今後の政治日程ですが、まず、ノールーズ(アフガニスタンのお正月)の3月21日(春分の日)前後に、ローマ亡命中のザーヒル・シャー(前国王)が帰国する予定とされています(実際には、4月中旬に帰国)。それから、6月には緊急大ジルガが開催されて移行政権が樹立され、さらにその2年後にやっと選挙による正式政府発足という日程になっています。ただ、このような政治日程を順調にこなしていって、正式政府樹立まで至るのかどうかについて、多くの関係者が不安に思っているのが現実であります。それには多くの要因があると思いますが、ここでは4点ほど指摘しておきたいと思います。

 まず第1は、未だに残るターリバーンの影と後遺症であります。ご存じのように米軍は、執拗にターリバーンの最高指導者ウマル師と「テロの黒幕」ビンラーディンを追跡していますが、未だに捕捉できておりません。ビンラーディンの生死については諸説ありますが、ウマル師は確実にパシュトゥーン居住地域内に潜んでいるようです。また、ターリバーンの主要幹部達も、ほとんどが姿を消したままであります。2月になって、外相であったムタワキルが投降して米軍に引き渡されたとされていますが、他の幹部は未だに潜んだままとなっています。そして、一部の幹部は、通信社とのインタビューで、「ターリバーンは必ず復活する」と発言しています。最近では、ウマル師による「アメリカに対して徹底抗戦を展開する」との声明が、イギリスのアラビア語紙で報道されたりもしています。

 このような状況は、パシュトゥーン居住地域に、未だにターリバーン「支持」勢力が根付いているのではないかということです。この「支持」の意味合いは、文字通り括弧付きの支持であると考えられます。加藤先生による先のお話しにもあったように、パシュトゥーンの重要な行動規範の一つに、「庇護を求めてきた人物は命を懸けても保護する」ことがあります。この行動規範は、田舎に行けば行くほど忠実に守られているわけであります。そのようなパシュトゥーンは、ターリバーン自体を支持するからというよりは、自分達の同胞でもあるウマル師を追っ手から庇護しようとするわけであります。米軍が「ウマル師が潜んでいる」との情報に基づいて、特殊部隊を派遣して同地域を徹底的に破壊したり、抵抗する住民を殺害したり手荒に取り扱ったりすると、事態を益々複雑にしていくと言えます。

 それから、ターリバーンの後遺症ですが、それは民族間の亀裂であります。ターリバーンは、支配地を拡大していく中で、非パシュトゥーン地域では弾圧と占領地政策を実施しました。このため、パシュトゥーンと非パシュトゥーンとの間の溝が、益々広がっていく結果になりました。例えば、北部同盟の司令官マスウード(「9・11同時多発テロ」の2日前に暗殺された)が、反ターリバーン抵抗運動を持続できたのも、北部において多数派のタジクを主体とする非パシュトゥーン民族の危機感を反映していたといえます。この民族的な溝を、今後において埋めていかなければなりませんが、非常に難しい骨の折れる問題として残り続けると思われます。

 第2の要因は、世代間闘争といった側面であります。カルザイ氏の年齢は40代半ばであるとされています。そして、暫定行政機構の中枢に陣取る国防相、内相及び外相のタジク三人衆も、カルザイ氏と同年代か若干若い年齢層であります。ソ連邦がアフガニスタンに侵攻した20年ばかり前に遡ってみると、これら40代前半の世代は大学生か、大学を卒業して間もない時期でありました。いわば、対ソ聖戦の初期を兵士として戦った世代であります。それら兵士を組織化していったのが、ムジャーヒディーン各派の指導者や幹部であったわけであり、イスラーム協会のラッバーニー、マスウード及びイスマーイール・ハーン、イスラーム党のヘクマティヤール等が含まれています。暫定行政機構には、これらのかつての指導者は含まれていません。従って、これらの指導者が不満を持っても不思議ではないわけであります。ヘクマティヤール至っては、米軍の軍事行動に反対しターリバーンに合流する動きさえみせており、他の指導者も今後の復権を狙って虎視眈々としているのが現状といえます。例えば、ラッバーニー(前大統領)は、復権を目指して裏で画策していると伝えられています。ヘラートを地盤とするイスマーイール・ハーンは、息子を閣僚に送り込んでいますが、暫定行政機構の権限がヘラートに及ぶのを阻止して、自らの「帝国」を着々と築いているといえます。他の旧指導者層も、多かれ少なかれ復権に向けて動いているわけであります。従って、この世代間闘争という側面にも、注目していく必要があるかもしれません。

 第3の要因は、20年以上にわたる内戦で培われた「ガンカルチャー」の蔓延であります。問題を話し合いではなく、すぐに武力で解決しようとする態度、そして、それを容易にする大量の武器弾薬の蓄積がなされているわけであります。治安を回復し中央政府の権威を地方に拡大していくためには、軍閥の武装解除が必要になるわけですが、カルザイ政権は国際治安支援部隊(I S A F)の力を借りてカーブルの治安を確保するのがやっとであり、なかなか武装解除が進んでいないのが実状であります。既に、各地で部族抗争や地域支配を巡る大規模な衝突も発生しています。

 第4の要因は、さきほどから指摘しております、暫定政権の持つ不安定な構成であります。閣僚におけるタジクの突出、中でも、国防、内務及び外務といった主要閣僚をタジクが握っていることに、最大構成民族パシュトゥーンの欲求不満が募っていくのは間違いないでありましょう。さらに、パシュトゥーンの中にも対立の芽があります。暫定行政機構が登場するまでのアフガニスタンは、ほとんどの時代をパシュトゥーンが牛耳っていました(図3)。とはいっても、1978年4月の社会主義革命まで、国王あるいは大統領はもちろん、主要閣僚のほとんどはドゥッラーニー出身者でありました。ところが、社会主義革命以降は、ドゥッラーニー部族連合とは歴史的に抗争を繰り返してきていたギルザイ部族連合出身者の進出が目立ってきました。社会主義政権の指導者であるタラキ、アミン、ナジブッラーは、いずれもギルザイ出身であります。また、ソ連侵攻で政権についかカルマルは、父方はカシュミールからの移住者で、母方がギルザイ出身者であったとされています。いずれにしても、ドゥッラーニー出身者はいません。また、ターリバーンの指導者ウマル師もギルザイ出身で、ターリバーン幹部の多くもギルザイ出身とされています。

 暫定行政機構の議長にカルザイ氏が就任し、再びドゥッラーニーの主要部族の手に戻ったわけであります。タジクに支えられたドゥッラーニー/ポーパルザイ出身のカルザイ議長を、戦乱の20年以上にわたり政権の指導者を輩出してきたギルザイ系パシュトゥーンは、厳しい目で見つめているのではないでしょうか。そして、ドゥッラーニーの主要部族の間でも、歴史的に抗争を繰り返してきており、決して一枚岩ではないわけであります。パシュトゥーンと非パシュトゥーンの民族間のわだかまり、そして、パシュトゥーン部族間の複雑な利害対立の中で、カルザイ政権が迷走していくかもしれません。

アフガンニスタンが泥沼かする恐れも……

 暫定行政機構のカルザイ議長は、アメリカとのつながりが強い人物であります。その兄弟は、アメリカに移住して、複数のアフガン・レストランを経営しており、カルザイ氏も頻繁にアメリカを訪問していました。クリントン政権末期において、アメリカ議会上院外交委員会の開催した聴聞会で、アメリカのアフガニスタン政策の変更を訴えることもしています。さらに、ブッシュ政権のアフガニスタン担当大統領特使ハリルザードや国務省南アジア担当次官補ロッカとは、ブッシュ政権が誕生する以前から親交を持っていました。このカルザイ氏の米国との太いパイプは、カルザイ氏にとっての強みとなると同時に、弱点となる可能性を秘めているといえます。

 最近の米軍によるターリバーン/アルカーイダ討伐の進め方をみていると、米国の存在がカルザイ氏にとって不利になるように思われて仕方がありません。現在のところ、アメリカは、地元の親米的な軍閥に豊富な資金をばらまいて、その地元軍閥勢力に討伐戦の一翼を担わせています。そのため、米軍からお金が流れるグループと、そうでないグループとの反目が激しくなると見られます。復興を軌道に乗せる上で治安の維持が不可欠でありますが、アメリカはターリバーン/アルカーイダ討伐を優先するあまり、結果的に地方での抗争激化に手を貸してしまっているわけであります。

 そもそも、米軍による討伐作戦の主要目標の一つになっている東部地域は、部族抗争の激しい地域でもあるわけです。アメリカにすり寄った軍閥が、対抗する部族の勢力を削ぐために、偽情報を米軍に流しているとも言われています。パクティア州におきまして、カルザイ氏の議長就任祝いのためにカーブルに向かっていた有力者の車列を、米軍が誤爆した事件がありました。これも、親米軍閥が米軍に偽情報を流したためであったと噂されています。このような誤爆事件が頻発していくと、特にパシュトゥーンの間に反米感情が高まっていき、カルザイ氏にとっては都合の悪い状況が生まれる可能性があります。

 現状では、米軍主導によるターリバーン/アルカーイダ討伐作戦は長期化しそうな状況であります。そうなると、パシュトゥーン居住地域での民間人の被害が今後も増加していき、パシュトゥーンの中に反米感情が益々高まっていくと共に、米軍の犠牲者も増加していくでありましょう。アメリカのブッシュ大統領は、イラクを次の標的にしてフセイン大統領に圧力を加えていますが、逆にアフガニスタンで泥沼にはまり込むような状況が生じる可能性さえあるわけあります。こうしてみると、アフガニスタンからは、当分目が離せないと言えましょう。ご静聴有難う御座いました。

「ベトナム化」も懸念される(司会・田中氏)

 有難う御座いました。「ガンカルチャー」というお話がありましたが、あれだけ銃砲が市民生活の中に入り込んでいる国だと、いわゆる「刀狩り」のような政策がうまくいかないと、なかなか平和には結びつかないような気がします。アフガニスタン攻撃が始まった時に、アフガニスタン人は非常に侵略戦争に強いので、「ベトナム化」するのではないかというような気がしていましたが、柴田先生のお話を聞くと、場合によっては、そのような状況になる可能性も残っているのではないかというような気もします。

 注記:6月に緊急大ジルガが開催され、再びカルザイ氏を議長とするアフガニスタン・イスラーム移行政権が発足した。しかし、この移行政権発足直後の7月には副議長カディールが暗殺され、9月にはカルザイ議長に対する暗殺未遂事件がカンダハールで発生した。また、首都カーブルでは、爆弾事件が頻発し、カルザイ議長暗殺未遂事件の直前には、20名以上が死亡する自動車爆弾事件も発生した。また、米軍の出先基地にロケット砲弾が撃ち込まれる事件も頻発している。そして、ターリバーンの最高指導者ウマル師は、9月中旬において、まだ姿を消したままである。

 カルザイ移行政権の権限は、相変わらずカーブルに限定され、そのカーブルの治安維持さえも不安視されている。また、地方の有力軍閥、特に、関税収入が見込める西部のイスマーイール・ハーンや北部のラシド・ドースタムは、その関税収入の一部しか中央政権に上納せず、益々中央から離反する動きをみせている。パシュトゥーンの間でカルザイ政権は不人気であるとされ、その今後の行方が気になるところである。

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2003 ユーラシア紛争地フォーラム実行委員会