ユーラシア紛争地特別フォーラム(2002年3月9日、早稲田大学小野講堂)レポート
●第2部(2)加藤氏発言部族の慣習法などの視点からアフガニスタンを考える
加藤九祚(国立民族学博物館名誉教授)
私は、2つの点についてお話したいと思います。第1は、アフガン人の生活に近い慣習法的な部分、そして第2は、私自身のアフガニスタン観といいますか、私はこれまでソ連が侵攻する前に2度ほど、アフガニスタンを2週間ずつ旅行したことがあります。その印象を含めてお話したいと思います。
プシュトゥンの慣習法について
まず、ロシア科学アカデミー東洋学研究所の『アフガニスタン要覧』(モスクワ、2000年刊)に書かれたプシュトゥン(アフガン人)の慣習法を紹介します。慣習法なしにはアフガン人の理解はできないと思います。ただし、この慣習法はアフガン人の社会だけでなく、アフガニスタンから中近東(カフカスを含む)まで、若干のバリエーションはありますが、基本的には同じ形だと思います。
プシュトゥンの社会ではごく近年まで民族独特の慣習法の規定が家族関係や生活を調整するうえで、大きな役割を果たした。その規定を解釈する権利は主として部族の名門からなる長老会議ジルガ(dzhirga )に属した。各部族には慣習法の「通(つう)」(dzhirgamar)がいた。争いや要求、戦争と平和など重要な問題の決定のためにジルガが召集された。ジルガの決定は全員にとって絶対的なもので、したがわないものは追放されることさえあった。慣習法の基礎には3つの原則があった。すなわち客の歓待、血の復讐、援助の依頼である。
プシュトゥンは客を歓待する。彼らのどんな村でも、旅びとは眠る場所と食べものと保護があたえられる。客は特別の客室フジュレ(khudzhre)で眠ることができる。村びとがそこへ食べ物を運び、旅びとの健康や今後の計画についてたずねる。家の主人は誰でも、しかるべき状態で客を歓待することを名誉だと思っている。客はその家の主人だけでなく、村びと全員の保護のもとにある。村びとは、必要であれば武器を手に客を守る。この慣習はバドラガ(badraga =防衛・保護)とよばれる。客に危害が加えられれば、家の主人にとって大きな恥辱となる(客がフジュレにいた場合には、村びと全員の恥となる)。プシュトゥンの家を敵が訪れても、その敵を来客として迎えねばならない。客がその家をたち去ったとき、主人は初めて行動の自由を得る。
血の復讐はバダル・アヒスティル(badal akhistyl)またはpor akhistyl(復讐する、血の復讐の負債を得る)とよばれる。家族また親族グループ(父系の)の血の復讐は世代から世代へひきつがれる。はたされない血の復讐は家族または親族グループの恥辱とされる。しかし慣習法は殺人、傷害、女性のかどわかし、家畜による畑荒らし、盗みなどにたいする補償額を定めている。殺人にたいしては「血の値段」フン(khun)が要求された。長老、尊敬すべき人、誠実な戦士を殺した場合にはフンは増額される。一部のアフガン人の部族では、殺人の被害者が女性であればフンは男性の半分とされた。ときには殺人の被害者の後継者に補償の形で娘を妻としてあたえることもあった。貨幣価値は不明であるが、1930年代で殺人にたいするフンは7,000 ないし1万1,000 アフガニであった。
傷害にたいする補償は身体の部位によってちがっていた。これは顔、目、耳など見える部分か、それとも隠れた部分かによってちがった。片目であれば1フンの半分、両目の場合は1フンであった。刃物による傷害が背中であればフンの額が低かった。被害者は逃げたとみなされ、恥ずべきこととされたからである。
若い女性を強制的にかどわかした場合は1フンのほか、罰金としてさらに半フンが加えられた。娘の同意を得て彼女を連れ去った場合にはジルガが召集され、通常の2倍の婚資が科された。他人の妻をつれ去った場合のフンは7倍で科された。女性暴行にたいしては犯人の耳または鼻を切断した。妻に死にいたるまでの暴行を加えた者は、その女性の父親が夫を殺人犯として復讐することができた。もし誰かが他人の家に放火した場合には、焼失した財産の弁償だけでなく、家に加えた侮辱にたいして罰金の支払いを科せられた。遊牧民のテントを焼いた場合の処罰はさらにきびしかった。家畜を奪い去った場合はその家畜の値段の10倍、家畜によって麦畑を荒らした場合は麦の値段の4倍の罰金が科せられた。誰かが順番を無視して自分の畑に水を引き入れた場合も、罰金が科せられた。
財産の補償制度には人権保護の特殊な形態であるバルマタ(barmata =文字通りには抵当、保護、「没収」)があった。この内容はつぎの通り。債務者がその債務を返済しようとしなかったり、返済能力がなかったりする場合は、その債務者またはその親族から財産(ふつう家畜)を債務を返済するまでの間とりあげる。ときには債務者と同じ村の住民の家畜を一時的に没収することもある。被害者は債務者に支払いを要請するか、自分が損害をかぶるかするほかはない。
ヌィナワテ(nynavate)という風習がある。これは襲撃をうけたり、武力衝突が起きた場合、あるいは部族間の不和が生じた場合、援助を要請することである。プシュトゥンはふつうこの風習に大きな意義をあたえている。この要請を断ることは恥とされる。ヌィナワテは当事者(あるいは犯人)が人前で行う必要があった。例えば犯人が被害者の家にしのびこみ、その家の女性年長者の胸に口をつけることができれば、犯人とその女性とは「母と子」の関係になったとされ、罪を許される。一部の地域では、個人間または部族間の不和にいたる出来事が起こったとき、あるいは血の復讐の可能性があるとき、年配の女性が『コーラン』を頭上にのせ、日の出前に敵側の家に入る。また別の場所では、尊敬すべき男性のグループが被害者の家を訪れ、言葉と行動で陳謝する。このとき、そのグループに同行した「犯人」または当事者は口にいっぱい綿をつめ、手にナイフ、肩にサワン(死者の体にまきつける布地)、首に縄をかけている。この「犯人」が被害者の父、母または兄弟の足元にひれ伏し許し請う。また別の地方では、ヌィナワテはつぎのようにおこなわれる。殺人犯の手足をしばって墓場に運び、被害者の親族をそこに招いて長老がナイフをわたしながら「殺すも許すもあなたの自由です」という。すると被害者の親族はナイフを投げ捨て、みんなにきこえるように「私は許します」という。そして被害者の家族がひとり減ったことを補償するために3乃〜4人の女性を与える(フンの全額)。
プシュトゥンがヌィナワテを行使するのは最後の手段である。彼らの誇りが許さないからである。ヌィナワテの行使は個人の名誉を捨てるだけでなく、部族の誇りにもかかわるからである。人によってはヌィナワテに頼るよりは死を選ぶことをよしとする。
プシュトゥンの名誉の問題でナムス(namus)、ナンガ(nanga) 、トゥラ(tura)またはメラナ(merana)の原則が特別の意義をもっている。
ナムスはプシュトゥン人がきびしく守っている女性の名誉である。彼らの考えでは、他人の家庭の名誉を守らないものは自分の家庭の名誉も守れないとされる。夫にとって妻はナムスであり、プシュトゥンの男は妻を守ることを神聖な義務と考える。それができない男はベナムス(benamus )とよばれる。こうしてナムスは妻の名誉であるだけでなく、夫の名誉でもある。プシュトゥンの男が自分の妻を他人の目から隠すのはこのゆえである。もし妻が不義をしたり、あるいは彼女をかどわかしたりした場合には、女性の同意に関係なく、夫はふたりを殺害すべきである。これが慣習法の掟である。しかし夫はしばしば別の原則にあまんじる。「誰も知らない恥は恥ではない」とし、妻に不義があってもこれを隠してしまう。殺害は、不義の相手側から血の復讐を招くおそれがあるからである。
ナンガは集団内の他人の名誉と自分自身の名誉を守ることである。プシュトゥンの名誉はたぶんに彼らの属する父系集団または部族と結びついている。親族的結びつきをもたない人は同盟者をもたないことを意味し、事実上そういう人はありえない。プシュトゥンはナンガを忠実に守り、自らの家族、父系集団、部族、さらには民族の名誉のために英雄的に行動する。こういう人はナンギアライ(nangialai )と呼ばれ、みんなの尊敬をうける。ナンギアライの反対の語はベナンガ(benanga )である。ベナンガは真のプシュトゥンではないとされる。
トゥラ(文字通りには「剣」の意)は誠実なプシュトゥンの名誉を意味し、正義のための戦いに発揮する勇気である。プシュトゥンの誇り高い戦闘精神はトゥラにおいて現れる。メラナ(勇気、勇敢)は、一面ではトゥラと同じであるが、他面では「不屈」を意味する。meranaはプシュトゥン語のmere(夫の意)の派生語であるが、子どもや女性の場合にも用いられる。プシュトゥンは不屈不撓を自分たちの民族的特性と考えている。
プシュトゥンの戦闘方法にはいくつかの特徴が見られる。敵の来襲をうけるとティンパニや太鼓を打ち鳴らして全員に知らせる。村びとたちが急いで集まる。これはチガ(chega )とよばれる。父系集団または部族は軍旗を立て、司令官を選んで態勢をととのえる。この状況では、同族間の不和などはすべて忘れ去られる。生命を惜しまず勇敢に戦うことが神聖な義務とされ、女性たちも戦闘に参加する。女性たちは太鼓をたたき、叫び声をあげて戦士をはげまし、水やパンを運んでくる。もし女性が『コーラン』を手に戦場に走りこめば戦闘行為は中止されることになっているが、しかし敵味方双方に戦死者が出ると、こうしたことはめったにおこなわれない。紛争または戦闘行為の終結を願って、敵側に数人の人質を送ることがある。人質は紛争解決まで相手側に留まる。戦場からの離脱者には死があたえられる。戦闘が終わると戦死者を埋葬するが、後ろ側(背中の側)からの傷をうけたものは、敵に背を見せた臆病者として放置されるという。
プシュトゥンの間には、若者が戦闘に習熟するように、さまざまな遊びや訓練がある。楯をもった競技(siparbazi )、射撃競技(nasha veshtyl )、プシュトゥンの踊り(atan)などである。毎年競技がおこなわれ、多くの観客を集めている。大人たちは子どもたちが勇敢で独立心に富み、年長者を尊敬するようにしつけている。とくに年長者にたいする尊敬は大切とされ、メシェル(mesher)という共通の言葉がある。これは長老や家長の権威とも結びついており、年の若い人は年長者の言葉をきくことになっている。しかし他面では、プシュトゥンは誰もが兄弟であり平等であると考えている。平等の原理からプシュトゥンのもうひとつの特性である謙遜が生まれる。自慢する人は尊敬されない。
教育と生活の向上のみが彼らを救う
慣習法の内容はこのように続きますが、ここには非常によくプシュトゥンの特徴が出ています。このように、彼らの慣習を内側から見ると彼らのことがよく理解できると思います。しかも、ご承知のように彼らは今のところ非常に教育の程度が低いので、ハレヤつまり彼らの隣組、あるいは同族の強い結びつきについて疑うことを知りません。このため、彼らは部族のためには生命を捨てるわけです。また、誘われた場合には断ることはできません。この側面は非常に大事だと思います。
非常に難しい問題ですが、私が見るところでは彼らが救われる道は、なんといっても教育及び生活の向上ではないでしょうか。こうした慣習法は人間の本質に迫っているものですから、彼らがこの束縛から脱するためには、どうしても教育の向上が必要だと思います。そしてこのためには、ある程度の経済的な基盤が必要であることは、いうまでもありません。
それから、アフガニスタンには20いくつもの多くの民族が住んでいるのです。しかも、ただ民族の数が多いだけではなくて、比較的多数を占める民族が複数あり、プシュトゥンにしても総人口の50%に至らないのです。これも非常に大きな問題です。
それでも、これまでの状況をみると、多くの民族の中でプシュトゥンがほとんど支配的でした。カーブルの富豪たちはほとんど「○○ザイ」という名前のプシュトゥンの部族で占められていました。あとの人は、ほとんどがひどい暮らしでした。そういう状況が長く続いてきたわけです。それに対する不満が出てくるのは当然です。
タリバン崩壊後は、新聞報道などによればタジクがかなり優遇されているようですが、そんな状況では長続きしないだろうと思います。やはり、民族間の相互の立場が平等になるように考えなければ、うまくいくはずがありません。
それから、何といっても一番大きな問題は、自然的な環境ではないでしょうか。例えば現在アフガニスタンとウズベキスタン・タジキスタンの国境となっているアムダリアという河は、歴史的にみて人を結びつける役割を多く果たしてきたのであって、決して国境となって人々を互いに離すものではなかったのです。
というのは、河は両側に斜面がありますが、往々にして北斜面の方が自然的に条件がよく、そちら側の方が裕福なのです。雨は降るし全体に条件がいいのです。アフガンの場合もクンドゥスとかバグランのあたりは、かつてのクシャン帝国の一番の本拠地でした。スルフコタールという大神殿はバグランにありました。これはクシャン帝国の中心であり、出発点でした。やはりアムダリアの場合も北の斜面はかなり恵まれています。しかし、現在、ここにはタジク、ウズベクなどの中央アジアの民族が多数住んでいます。そういう問題も大きいと思います。
一方、ヒンズークシ山脈は、むしろ人々を引き離す役割を果たしたように見えます。というのは、アフガンという国は18世紀半ばにアフマド・シャー(ドラニ朝)という強力な征服者が登場して、かなり統一された面もありますが、ヒンズークシの山を境に南と北ではかなり違うのではないかと思えるからです。
現在、私は毎日ウズベキスタンのテルメズ(アフガニスタン国境)という町で、アムダリアを見ながら仏教遺跡の発掘作業をしています。すぐ近くに聖者の廟があって、水曜日になるとアフガンからの難民がお参りに来て、そのあとしばらく家族ともども河のそばに立って、じっとアフガン側を眺めています。こういう彼らの姿を見ていて、故郷を失うということは、実に大変なことだと思います。
それから、パキスタンを旅行しても多数の難民キャンプが延々と続いています。こういう風景に接して、本当に、「人間はいったいどこに行くのだろう」と痛切に感じます。有り難うございました。私の話はこれで終わります。
2003 ユーラシア紛争地フォーラム実行委員会