ユーラシア紛争地特別フォーラム(2002年3月9日、早稲田大学小野講堂)レポート
●第2部(1)司会コメント「怨念の累積」を読み解く要
司会・田中哲二(キルギス共和国大統領顧問、政策研究大学院大学客員教授)
アフガニスタン、カシミール、パレスチナの3地域に限定して
田中でございます。今回、こういう機会を与えていただきまして、大変な難問を投げかけられたと思いながらも感謝しています。
2001年9月11日にニューヨーク等で同時多発テロが起こり、10月には米英軍のアフガニスタン空爆が始まりました。あれよあれよという間にアフガニスタンの状況が大幅に変わって暫定政権が成立しました。そして現時点では、かつて私が約2年間滞在していました旧ソ連邦中央アジアのキルギス等に米軍が入り込んでしまうなど、もの凄い速さで、あの地域の冷戦後の勢力地図が塗り変わってしまいました。ある意味では必然的な帰結でもあります。ちなみに米軍の正規軍が旧ソ連領域に駐留するのはロシア革命中の1918年の連合軍のシベリア出兵以来ということになります。
同時多発テロという事態に対して、テロの実行犯の母体を叩くということで、アフガニスタン空爆という軍事行動が行われているわけですが、テロが発生したからモグラ叩き的に対症療法を講じていけば、テロ勢力が根絶し、これからの世界の平和が保障されることになるのでしょうか。対症療法的とは言え軍事作戦を拡大すれば、それに伴って一般民衆を含め多くの当事者以外の被害者も出るし、被害者意識をもった側からすればさらにいろいろな怨恨を累積させていくのではないかという気がします。この怨恨が民族問題、宗教問題、貧困などと併って、反政府運動やテロを生んでいくことになる面があるのではないでしょうか。そこで、そもそも怨恨を累積させたプロセスに一度立ち返る必要があるように思われます。
このセッションでは、ある程度地域を限定して話を進めます。まず今問題となっているアフガニスタン地域の紛争の故事来歴・現状というのが第一点です。それから、インドとパキスタンの間にあるカシミール問題に、大国の介入の後遺症と宗教対立を含んだアジア・アフリカ地域の紛争の一つの典型をみることが出来ます。さらにもう少し目を西に転じますと、なんといっても20世紀後半最大の平和の毀損案件であったパレスチナ問題があります。この3地域に絞って、ごく最近の状況を含めて、ユーラシアの紛争地域の持っている歴史的かつ根源的な原因という視点から皆さんとともに考えていきたいと思います。
紛争に関する6つのキーワード
まず、地域紛争の依って来る要因や事情について、6点ばかりキーワード的に挙げてみたいと思います。
- まず、諸民族が多重的に存在しているところは、どうしても危険地帯になりやすい。
- 多くの宗教がいろいろな形で接しているところも同様です。宗教には多様な面があって、例えばイスラムでも非常に寛容、人道主義、平和主義、非暴力的であったりする半面で、ある部分は非常に暴力的で、犠牲を強いたり、ジハード(聖戦)という格好で攻撃的になったりする場合が見受けられます。
- 「文明の十字路」といわれるアフガニスタンのように、歴史的に多重な文明が堆積しているところでは、あるきっかけで文明の先祖帰りのようなことが起こって、それが現在の周囲の文明と衝突してしまうことがあります。
- 自国内で石油などの資源の開発をコントロールできず、経済面を含め、外国勢力の介入を招いてしまうような地域も危険です。
- 政治的に民主化が進まず、独裁ないし権威主義的政権下で貧困度の強いところでは、反政府運動を含めてどうしても宗教的な過激主義と結びつきやすい。例えばアフガニスタンの過激派の兵士は、たった50〜100 ドルほどでいくらでも雇うことができます。私が滞在していた中央アジアでも、そういう過激派の人たちが、農村などにリクルートにやってきて、わずかな金で壮丁を簡単に自派の軍隊に引き入れていきます。
- アフガニスタンだけでなく、中近東、中央アジア地域などでは、かつて、イギリス、 ロシアなどの大国が、主に自分たちのエゴで政治を動かしてきたわけですが、その行為の 後始末が不十分なために各種の対立が代理戦争などの形で現地化し、多くの怨恨と矛盾と貧困などを累積させ、現在の悲惨な紛争を引き起こす原因となっている場合が多い。つまり、紛争の基底にかつての大国のご都合主義があるということです。
大国のエゴイズムの残傷
第6番目の点に関して、例えばパレスチナ問題についていえば、ご存じのように大英帝国が、第一次世界大戦を上手く乗り切るために、外交的に平気で2枚舌、3枚舌を使ったことに根元があります。まず1915年に「フセイン・マクマホン書簡」が出されて、大戦が終結した暁にはアラブ国家を独立させるという約束をします。ところが、翌年の1916年になると、旧オスマントルコ帝国のアラブ地域は、大戦後イギリスとフランスで分割するという「サイクス・ピコ秘密協定」が結ばれます。さらに時のバルフォア英外相が1917年に「バルフォア宣言」を発して、ユダヤ人がパレスチナの地に国家を樹立することを許容するということを約束したのです。全て英国が第一次大戦を上手く乗り切るためのご都合主義で、これらの内容は当然ながらトレードオフの関係にあり、全部同時に成立する話ではありません。矛盾しているわけです。こういう大国のエゴ丸出しの場当たり的な対応が、現在のパレスチナ・イスラエル間の際限のない局地化された暴力の応酬の基底にあるのです。
それから、アフガニスタンでいえば、大英帝国が3回のアフガン戦争(第1次=1838〜42年、第2次=1878〜80年、第3次=1919年) を戦って3回とも大敗を喫します。そして、第2次アフガン戦争後の1893年には、ロシアの南下を防ぐために、大英帝国のデュランド特使がインドの藩王を説得して、現在、アフガニスタンとパキスタンの国境となっているデュランド・ライン(戦時境界線)を人為的に引きました。このラインによって、現在アフガニスタンの最大の民族であるパシュトゥン人が居住していた地域が真っ二つに分割され、東南側がパキスタンに、そして北西側がアフガニスタンに所属することになったのです。このため、両国に跨がるこの地域はトライバル・エリアと呼ばれ、国境線があまり意味を持たない地帯となり、密輸やイスラム過激派の往来、武器の密造など、非常に不安定化して現在に至っています。これも大英帝国のエゴの名残りということができます。この間、1979年〜89年の10年間はソ連が社会主義政権擁立というお題目のもとに攻め込み国土を荒廃させてしまう。これも全く大国の一方的な行為です。
それから、カシミール問題ですが、これも英国がヒンドゥー教とイスラム教の内紛を利用しつつ、勝手に国境づくりをやったけれど上手くいかなかった結果だと思います。つまり、インド側に帰属させられたイスラム教徒が多数を占めている地域が、いつまでもしっくりいかないのです。
私が住んでいた中央アジアでも、紛争の多いフェルガナ盆地周辺は、1924年にスターリンによって複雑な国境線が引かれ、現在、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタンの領土が実に複雑に入り組んでいて、問題がおきない方がおかしいといった状態です。
また、現在、米国のブッシュ大統領によって、「悪の枢軸国」のトップランナーとしてやり玉に挙げられているイラクのフセイン大統領にしても、イラン・イラク戦争時には、アメリカはイラン憎しからむしろフセインに肩入れし、大量の武器を供給しているのです。また米国は今回激しく空爆したタリバンに肩入れしていた時期もあるわけです。
このように、大国の戦略のタレ流しと未処理の結果が、多くの問題をもたらしていることは否定できません。現地の国民、民族からみれば、こうした大国の変わり身の速さないしご都合主義に、論理的にも感情的にもついていけないわけで、その隙間に矛盾の現地化、抗争の現地化、殺戮の応酬の現地化が行われ、怨恨と怨念が蓄積していくわけです。これが国境問題、イスラムの過激化、民族対立の触発、貧困の蔓延等々をスパイラルに引き起こしていくわけです。部族社会では、理由はともかく父親を殺された息子は、相手に粘り強く復讐しようとするわけです。私はこれらを「怨恨の累積」と呼んでいますが、これがもとになってテロや小規模の戦争が繰り返し発生していくのです。
もちろん、テロ行為そのものは許されるべきではなく、テロ防止のための国際的な協力システムを作ることは大切です。しかし、発生した事態に対して外科療法的あるいは対症療法的に、強力な軍事的対応で潰していくことだけで、平和が到来するというのは幻想であって多くの疑問があると、私はかねがね考えています。
そうした意味で本日は、それぞれの地域の専門家の方々に、各地域の紛争の依って来たるところを読み解いていただいて、どこのポイントに立ち戻れば解決の糸口がみつかるのか、または過去の解決方法で誤っていたと思われる点などについて、皆さんと一緒に考えたいと思うわけです。
2003 ユーラシア紛争地フォーラム実行委員会