ユーラシア紛争地特別フォーラム(2002年3月9日、早稲田大学小野講堂)レポート
●第1部(3)川崎氏コメント

アフガニスタン難民キャンプを取材して

川崎けい子(フォトグラファー)


世界の構造的ひずみの一断面


 これから、スライドをお見せしながら難民キャンプの状態について、お話したいと思います。私は1999年から今年まで、アフガニスタンの首都カブールとパキスタンの難民キャンプを訪ねて、写真撮影などの取材をしてきました。もともとは R A W A (the Revolutionary Asociation of Wonen of Afghanistan=アフガニスタン女性革命協会)という団体と知り合ったのがきっかけでした。 R A W Aをサポートするための活動として、募金などをしてきました。


  R A W A は1977年に設立されました。スローガンは自由と民主主義、そして女性の権利の獲得です。ご存じのようにアフガニスタンは家父長制の強い社会で、女性は男性と対等の権利などは全く持っていません。女性は、ほとんど家畜のように売買されていたという状態でした。 R A W A はこうした状態を改善して、女性も男性と同じように、人間として生きる権利を闘い取っていくことを目的としています。


 今年1月から3週間ほど、パキスタンの難民キャンプと都市部の難民を訪ねた時に撮影したスライドをお見せしながら、話を進めさせていただきたいと思います。でも、これからお見せする写真を、アフガニスタンだけで起こっていることというように、受け取らないでいただきたいのです。というのは、アフガニスタンは9月11日以降、世界から注目されてよく知られるようになりましたが、私が行き始めた1999年から2001年9月までは、だれも全く無関心で、世界からほとんど見捨てられた地域でした。


 国連などの国際機関、各国政府、海外のNGOなども、わずかな例外を除いては、ほとんど活動していませんでした。そして、難民やアフガニスタン国内の人たちに対する救援物資も、ほとんど届かない状態で、私が関わった頃には、「アフガニスタンのことなんてなぜやるの?」と、随分いろいろなところで聞かれて説明に窮したほど、どこでも無関心でした。
 無関心のままに放置されている人々の窮状は、例えば、現在この瞬間にも地球のどこかで人知れず発生していて、人知れず多くの人が死に、大変辛い思いをしている人たちが沢山いるのだと思います。それを私たちは殆ど知らない場合が多いのです。ですから、知らないことが、存在していないことでは決してないことを、私のスライドを見て理解していただきたいのです。


 アフガニスタンの場合は、2001年9月以前は全くその通りでした。世界中のだれにも知られていなかったので、あたかも彼らの窮状が存在していなかったように思われがちです。ところが、死に物狂いで逃げてきて、やっと国境を越えても、そこで何の保護も受けられずに凍死したり、熱射病で死亡したり、あるいは餓死した難民たちは数知れません。また、不法侵入といわれて、そのまま強制送還されたケースも多くありました。こうしたアフガニスタンのケースは、単にアフガニスタン個別の問題ではなくて、現在、世界が抱えている構造的なひずみがもたらした一断面であることを、理解していただきたいと思います。


スライドが語るアフガニスタンの悲惨な現実


難民女性の識字教室


 これは、 R A W Aが開設している、難民キャンプの中の識字教室の写真です。ここでは、成人した女性と少女たちが一緒に学んでいます。女性は子どもが産めて、家事ができればいい。勉強などは必要ない――というのがアフガニスタンの伝統的な考え方でした。でも、女性も勉強して知識を得て、社会に貢献していくことが、アフガニスタン全体をより良い社会にしていき、そして社会のひずみをなくすることに繋がるということから、 R A W A は女性の識字教育に力を入れています。難民の貧しい女性たちも、一生懸命に勉強してい
ました。


 また、識字教室に通ってくる特に貧しい女性たちに、食料などを配給している写真です。勉強するためには授業料を払うのが常識と考えがちですが、彼女たちに月1回配給をして、本人や家族に「学校に行くと得になる」と思わせて勉強させようとする、苦肉の策なのです。

(写真1)難民女性たちの識字教室

(写真2)食料などの配給を受ける女性たち




容姿をブルカで隠して物乞い


 「アフガニスタン女性の、特に難民女性の象徴的な写真は?」と言われたら、私が必ず選ぶ写真がこれです。2000年に撮影したものですが、ペシャワールの町の中で物乞いをしている母親と病気の娘です。彼女たちは、当時、タリバンと北部同盟間の激しい内戦下にあったカブールの北のシャマリ地区から、逃れてきたのです。
 内戦下では、勝った軍隊によって住民の男たちの虐殺が行われ、女性と子どもたちはすぐに立ち退かなかったら殺すといわれて、着の身着のままで逃げ出すしかないことがしばしばあります。しかも彼女たちは、国境を越えてパキスタンに入っても、難民キャンプにも入れず、ペシャワールなどの都市部に流れ込むしか道はなかったのです。
 私は、彼女が身体全体を覆うブルガを着て物乞いをしているのを見て、びっくりしました。なぜなら、タリバン支配下のアフガニスタンと違って、パキスタンでは女性のブルカ着用は義務ではありません。着ても着なくてもいいのです。そこで、なぜブルカを着るのかと彼女に聞いたところ、「若い女性だと分かるとレイプされかねないから」ということでした。難民と認められていない彼女たちは、密入国者という弱い立場のために、レイプされても警察に訴えることもできないというのです。そんなにまでして一日中物乞いをしても、常食のナン(パンの一種)1枚買えるかどうかぐらいしかもらえない。彼女たちには、そんな悲惨な毎日が続いているのです。



(写真3)ブルカを着て物乞いをする母親と病気の娘



アメリカの空爆も孤児を生み出している

  R A W Aが運営している特別孤児院の写真です。ここにはタリバンと北部同盟との内戦ばかりでなく、アメリカの空爆によって両親や家族をなくした子どもたちも暮らしています。その中のある姉妹は、父親はアメリカの空爆で死亡しました。その直後に母親は病気に冒されてしまいましたが、タリバン支配下では、女性は男性の医者の診察を受けることはできません。母親と姉妹は難民となってパキスタンに逃れました。結局、母親は医者の治療を受けられないままに、パキスタンで亡くなってしまったそうです。



(写真4)R A W A が運営している孤児院



子どもの成長すら許されない劣悪な環境


 難民キャンプで生まれ育っている子どもたちの写真です。私は去年、4歳の可愛い女の子を撮影しました。また、この子に会いたくて今年もこのキャンプに行きました。どこを探しても、彼女が見つかりません。やっと彼女の母親が「この子です」と言って連れてきたのは、痩せて弱々しい小さな子どもでした。


 去年4歳だったから、今年は5歳、あの子はきっと、かなり大きく成長しているはず、と思って探していたので、却って小さく、弱々しくなってしまった彼女が分からなかったのです。去年は元気に飛び回っていた彼女が、難民キャンプの厳しい環境に対応できずに病気にかかり、すっかり縮んで変わり果てた姿になっていました。


 難民キャンプは、子どもが自然に成長することも許されないような、厳しく、劣悪な環境であることを、彼女の姿が象徴していると思います。



(写真5)去年は4歳で元気だった少女

(写真6)5歳になったのに却って小さく、弱々しくやつれてしまった彼女





関心を持ち続け、そのことを現地に伝えよう


 1970年代の終わりから、アフガニスタンでは20年以上にわたって戦火が絶えず、人々は苦しみ続けています。現在は世界中の関心が集まっていますが、間もなくマスメディアの報道も少なくなって、だんだん忘れ去られていくのではないかと思われます。いろいろな人たちから、「アフガニスタンの人たちに、一体何ができるのだろうか?」と聞かれることがあります。そんな時に私は、「とにかくアフガニスタンに関心を持ち続けてほしい。そして、私たちが関心をもち続けていることを、アフガニスタンの人たちに伝える努力をしてほしい」と言い続けています。


 現地の人たちは、爆撃で家族を失ったり、住みなれた土地を追われて難民にならざるを得ないなど、筆舌に尽くせないほどの困難に直面しています。それ自体が非常に辛い体験には違いありませんが、それ以上に辛いのは、伊東先生から「無関心の暴力」というお話があったように、自分たちに対してだれも関心を持ってくれず、見捨てられていると感じることだと思います。今日のフォーラムのような場を通じて、関心の輪が広がり、現地の人たちに私たちのメッセージが、少しでも多く伝わることに期待したいと思います。有り難うございました。

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2003 ユーラシア紛争地フォーラム実行委員会